バ−クリが活躍した17世紀末は唯物論が猛威を振るって、キリスト教を脅かしており、聖職者でもあったバ−クリこれに焦燥感を感じ、極端な観念論を展開した。
 存在するものは我々が知覚するものだけだが、我々が外部の対象を知覚すると考えるのは間違いである。「物質」や「物体」は知覚できない。視覚や触覚で経験的に推理しているだけである。
 バ−クリは独立した物の実在性は否定しないが、それは悟性にのみ存在するものだと考えたのだ。感覚で分かったと思うのは「意思あるいは精神」なのだ。物質の世界を作っている観念の原因になりうるものはこれだけである。この精神は「すべてのなかに働いて、すべてを行い、すべてはこれによってのみ存在する」のである。
 それは神の力の結果であり、神は我々の意識に親しく存在し、我々の観念や知覚を我々の中に呼び込んでいる。だから我々を取り巻く自然と我々の全存在は神の心のうちにある。時間や空間も神の心のなかにしかない。神は存在すべての原因である。
 知覚も観念も神が人間に授けたものであり、人間はこれによって外界や物質の実在を悟性で感得すると言うのである。
 このバ−クリの認識論を、外界や物が人間の悟性の中にしか存在しないという主張だと受け取るのは誤りで、感覚や悟性など人間の認識能力のすべては神から授かったものだと言う主張だと理解すべきであろう。
 村上新八