ヒュ−ムの哲学概念の中心は「因果概念の批判」である。その発端は、「複合概念」への疑念であった。
 人間は感覚によって外界の現実から感じ取った「印象」と、その印象の記憶である「観念」を持っている。その観念を複合したものが「複合概念」であるが、これは個々の観念のモザイクだから、ペガサスやキュ−ピッドのように、現実には存在しない「複合概念」をでっち上げることがある。だから、その真実性を確かめるためにはこの「複合概念」を構成する要素の一つ一つを検証する必要がある。 
 因果概念もこれと同じで、原因と結果が因果関係にあると考えるのは、経験から推理した判断であり、いわば「習慣」的な判断に過ぎない。われわれはあるものが他のものに時間上続いて起こるのを見慣れているから、このような継続関係から因果関係を作りあげているのである。必然性の関係をあらわすあらゆる概念、事物の客観的関連についてのわれわれの認識は、結局観念の連合に基づいているに過ぎない。
 「私」とか「自分」というものも、絶えず流れ、動いているさまざまな表象の複合にほかならず、われわれはこの複合物の下に一つの虚構の基体をおいて、それを「心」とか「私」と呼んでいるのである。
 ヒュ−ムの「複合概念」論も因果律批判も半分は正しく、半分は間違いである。原因結果の関係を、その発生プロセスの連続性や経験、慣習だけで即断してはならないことは確かだが、その推論を実験や再現性の確認やなんらかの仮説検定の方法で確かめることは出来るのである。
 また、「私」にしても、知能や性格は変わらない部分が多いし、内外の刺激によって変わっても変わらない部分の影響下でその人特有の変わり方になるであろう。とすれば、この不変な部分を「私」として定立することはできるのだ。
 ともあれ、このようなヒュ−ムの哲学では、
魂の不死や神の存在は人間の理性の埒外ということになる。