スピノザはデカルト学派とみられているが、単にデカルト哲学の継承者ではなく、デカルト哲学の弱点である二元論の一元化を図り一元論を唱えた。
 スピノザは、あるものはたった一つの「実体」だとし、存在するものはすべて「自然」であり「神」と「自然」「実体」はイコ−ルである。存在するものすべての中に「神」があり、存在するすべてが「神」のなかにある、とした。
 「神」は人間には「思惟」とて現れるか「延長(物体)」として現れるかだが、これはいずれも「実体」の「属性」であり、人間にはこの二つの「属性」しか分からない。
 「実体」である普遍的存在が特殊化する個々の定有形態が「様態」である。一輪の花は「延長」という「属性」であり、詩は思惟という「属性」である。
 だから、二元論を立ててデカルトが労した「心身」の関係も、精神と肉体は形式が違っているだけの同一物で、あって、これが意識を持った思惟として指定されたり、広がりすなわち「延長」を持った肉体として指定されたりするに過ぎないとした。
 完全な自由をほしいままに出来るのは「神」だけで、世界はすべて「神」の手のなかにあり、人間には自由はない。人間が自由だと思うのは、「神」の手にあるということを知らないためである。これがスピノザが説く「神」である。
 丁度、西遊記の孫悟空が仏の手の中にあることを知らないで、いい気になって世界を跳ね回って大暴れしているような錯覚におちいっているのと同じなのだ。
 スピノザはデカルトより徹底して世界と人間をか「神」のものにしてしまったのである。
 村上新八