「憲法論」などと大きく出てしまいましたが、此処では何も大それたことを申
し上げるつもりはありません。また、「理論」等も、私たちが生活をやってい
く過程で「なんかおかしい」と感じたときにそのもやもやをすっきりさせる役
目を負う程度のものと考えていいのではないか。なぜなら、それは結局事
実の認識方法の問題に過ぎないものだからであります。

さて、極めて当たり前(*)なところから考えてみましょう。

                          (*)この「当たり前」ということばも直感的
                   な意味で受け取りましょう

(1)先ず、日本国憲法は国民主権(*)の憲法です。この「国民主権」は、た
だ小中学生の社会科の教科書に載っているような、子供の教育のための
便宜的なものと感じたり、空念仏の美辞麗句と感じたりするするとすれば、
それは残念ながら極めて日本人的な現象と言う他は無いのです。(**)

                                   (*)国の政治のあり方を最終的に決定する
                  力は国民にある、とする原理

               (**)日本国民も数々の苦しい生活を経験し
                  て今日にいたってはいますが、この主権
                  を国民の手に取り込むための血みどろ
                                       の戦いを経験してはいない。
                                        いきなり戦後、天皇さんと入れ替えに
                  棚ボタ式に「いただいたもの」なのです。
                                       此れでは真剣になれと言う方がおかし
                                       いのすね。人間は容易く手に入ったもの
                  の価値は分からない場合が多い。

権限や力と言う表現をしないならば、国民主権の国では私たち国民が国
の所有者(*)と考えてもよいでしょう。所有者であるならば国の従業員にし
っかり働いてもらい、その中からできるだけ「利益」(**)をあげていいはず
であります。国会議員さん方や内閣総理大臣殿はいわば、従業員なわけ
ですね。このようにして、私は、日本国家を<国民が「利益」をあげる母体>
と認識する方法を提唱したいと思います。

                                  (*)所有権は、社会経済的には外界の物
                 資に対する支配を言いますが、外界の
                 物資のあり方を最終的に決定する力と
                 言っても同じことですよね。

                                (**)「利益」などというと、金カネかねとばか
                 り言っているようで、「えげつない」と思
                 われる方も居られましょうが、むしろそ
                 れでいいのではないか。このニュース
                 グループでも「金儲け」とか「商人根性」
                 とか言って批判する向きもあリますが、
                 「金儲け」だけをしようとしてはその「お
                 金」も儲けられるものではないのです。
                 尤も、日本国憲法は人権カタログで
                 「カネ儲け」だけを「国民の利益」とはし
                 ていないからこの議論はする必要が無
                 いけれども、私は、分かりやすいし、物
                 事がはっきりすると言う利点から寧ろそ
                 ういうような捉え方の方がベターなんだ、
                 と申し上げたいわけなのです。

国民が「利益」と思うべきは何か?それは国民自らが基本的人権と称して、
その項目を既に明らかにしてあります。今後、人間として必須のものと考え
られるものがあればそれらも基本的人権として項目に数え上げられるでし
ょう。このような基本的人権こそ(*)が此れまでの国民が考え出した国民の
<利益>なのです。

               (*)厳密に言えば、基本的人権を唱えるこ
                                    とで確保しようとする「利益」や「価値」

(2)さて、このようにして、日本国家は<国民が「利益」を上げる母体>で
あり、その「利益」項目も人権カタログに明記されている以上、そこで働く
従業員である国会議員の仕事はもはや明確なものとなっているわけです
から、「勤務評定」をすることが可能となる。これが「選挙」に他ならない。
選挙はペルゾンリッヒ(*)に志向されたものではなく、すぐれてザッハリッ
ヒ(**)に志向されたものなのであります。

                          (*)(**)ペルゾンリッヒは「人的」、ザッハリッヒ
                は「即物的」と訳されるのが普通か。

ニュースグループにおける政治論議も、今日の新聞にどんな記事が載っ
ていたか、そしてそれについてこっちがいい、あっちがいいではなく、常に
国民にどんな「利益」をもたらしたか、あるいは、もたらす可能性がある
か、を常に念頭に置いたものでなくてはならないのではないか。個々の
話題に惑わされ、またそれに留まることの無いようにし、また、それを語
るのを良しとする場合でも、基本的人権が目途とする国民の利益と価
値を忘れては困るわけだ。

毎年毎年同じことを手を代え品を代え(*)ダベルのではなく、彼等の「勤
務評定」に進歩が無くてはならない。それをバックアップするのがニュー
スグループ。政治家の「勤務評定」が悪いのはニュースグループが適切
な議論をしていないからだと知るべし。

             (*)事件や項目が違っても基本的人権が目途
               とする「利益」や「価値」の増進に変化が無
               かったら、「手を代え、品を代え」といわれ
               ても仕方が無いでしょう。

そのためにも薄っぺらな賛成を企てたり馬鹿の一つ覚えの反対反対を
繰り返したりするのは止めていただきたい。そういう馬鹿をやる奴は決
まって、自分は「何を考えればいいか」が分からない奴である。感想文し
か投げられない奴もまた同類。

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Golden Cross