てつたろです。
part3

NVGはAVGより長文に適したシステムか

概要は別の箇所にも書いているが、ここでは
飯塚さんの質問対応の形で、掲題に関して考察
する。

ウィンドウに表示しきれないほど長い文、複数
のウィンドウを読まないと全体としての意味が
判らない長い文章、これらは1画面を使って
テキストを表示出来るNVGが適している。
(AVGから長文対応として分化したものがNVG)

AVGは1ウィンドウ内で完結する短い文章が中心
になる。
(通常は句点で区切られた1文)
会話であれば短い文章のやりとりが中心なので、
制作者がウィンドウシステムに最適な文体を
考えた結果AVGは会話中心になり、「もっと長文
を書きたい」という制作者の意図がNVGという
形態を作り出したのではないか、と推察される。
(AVGで一般化されているアニメーション的効果
を捨てても)

飯塚さんのご意見
 a.AVGも長文化が進んでいる。
 b.1ウィンドウに収まらない長さの文章を
  要求されることはほとんどない。
 c.NVGも1文づつ表示させる形態。
 ↓
 故にAVGが長文不適とはいえない。

上記への反論

「文」という単位ならほとんど1ウィンドウ
(45〜60文字程度)に収まる。
しかしNVGでは「1画面」が「文章」の単位で
あり、短い文章でも複数の文章を1画面で表示
することはしない。
NVGでの1画面の文章のうち、何割程度がAVGの
1ウィンドウに収まるであろうか。
b.の定義からせいぜい1ウィンドウに収まる
程度の長さ(60文字程度)で「長文」と定義して
いるように読める。
NVGの基準から見てそれは長文とは呼べない。
従って、a.はNVGとの比較に於いて正しい表現
ではない。

AVGはウィンドウの制限があるため、過ぎて
しまった文を読み返そうとすると「ログ」を
開く必要がある。
「ログ」を参照しなければ文意が読みとれない
ようでは不便なので、AVGの場合、出来るだけ
1ウィンドウで収まる範囲で文章を作ろうと
する。
つまり b.は逆で、「AVGは1ウィンドウに収まる
長さの文章を要求される」結果、そういう文体
になるのだろうというのが私の考えである。
そうでないならNVGの改ページ単位はウィンドウ
に収まる文章量でなければならない。

次にc.だが、確かにNVGは1文単位で小分けに
表示される。
(中断点をページ単位に切り換える機能がある
NVGもあると記憶する)
しかし、NVGでは「文章」全体が一画面に表示
される。これが重要である。
例えば、上の6行の文章だが、2行づつが3枚の
カードに分割されて書かれていると考える。
3枚のカードをめくりながら見せられるより、
壁に1枚目を張り出し、その下に2枚目、3枚目
と順に全て張り出して行く方が文章全体を理解
しやすいのではないだろうか。
前者がAVGのウィンドウで後者がNVGの表示形式
である。
両者のどちらが文章を理解しやすいか、一目
瞭然であろう。
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ノベル的AVG/NVGにおける選択不可なPCの行動

ここでは、
・「よせ、やめろ」と感じる場面や
 「一日寝て過ごした」という描写は
 NVGとして「駄目」な部類か
・ストレスが感動となることはないのか
・「操作できない」=「ストレス」か
・多数の人が求めるのは、意外性より感動か
について考察する。

ノベル的AVGの特徴として以下のものがあること
は別のPartで述べた。NVGも同じ特徴がある。

・移動:移動の契機は選択肢よりPCの意思に
    よるものが主。
・行動:行動の選択のないまま場面切替、時
    には1日以上が過ぎる事がある。
    どんな選択でもストーリーは先へ進み、
    停滞はない。
・台詞:会話の契機は選択肢よりPCの意思に
    よるものが主。
    選択肢から会話が始まる場合も、最初
    の台詞以降はPCが勝手に話す。
・思考:一人称で台詞以外の口語文はPCの思考
    そのもの。
    PCの喜怒哀楽はストレートに記述。

PCのとる行動は千差万別だ。
誤った行為(行うべきことを行わない事も含む)
や見るも恥ずかしい行為をとる場合もある。
誤った行為の結果、自分や周囲の人間を危険や
不幸に貶める場合もある。
(これらの行為を総称して、「よせ、やめろ」
と言いたくなる行為と呼んでいる)

その結果、鬱になってやる気を無くし、「一日
中布団に閉じこもって、ヒロインが心配して
尋ねてきても出てこない」という状態になる
こともある。
(「起承転結」の「転」のPartで思いがけない
トラブルが発生するのはストーリー物の常道)

そこから立ち直り、ハッピーエンドに向かえば
「胸が洗われる」ような感度を得られる。
いくつかのトゥルーエンドや、多くのバッド
エンドでは立ち直りが出来ず、時には主人公
やヒロインの死という「胸が締め付けられる」
ような思いを受ける場合がある。

前者のような感動は「カタルシス」であるが、
「胸が締め付けられる」思いはストレスである。
しかし、これも「感動」と評される。
「悲劇が嫌い」と言う方もいるだろうが、多く
の方はこのようなストレス系の感動も楽しめる
だろう。

「ストレス」と「カタルシス」は陰と陽であり
どちらに偏りすぎても不健康と考える。
(現代人が「ストレス」に偏り過ぎているため、
悪い意味にとられがちだが)

ストレスには「イライラする」というものが
ある。
飯塚さんが「操作できないストレス」と仰った
のは、主に「イライラ」系のストレスを指して
いるのだろうと思われる。
(「優柔不断な主人公にイライラさせられる」
ストーリーもあるから、一概に「イライラ」系
ストレスを否定すべきでもないが)

さて、ノベル的AVGやNVGでは、ストーリーの
分岐に絡む大きな選択を除くほとんどの行動
はPC自らの意思による。
つまり「PCを操作できない」状態は頻繁に発生
する。
そのような状態を飛ばして、選択肢のある場面
まで進める機能が「スキップ機能」だ。
もし、操作出来ないことがストレスならこの
機能を利用すればいいが、ファーストプレイ
からこの機能を使う人は(例えシステム的に
可能であっても)少ないと考える。
(アンケートを行って調べた訳ではないが、
異論はあるだろうか)

「ストーリーがつまらない」と感じれば、私も
Enterキーを押すことに「ストレス」を感じる
ことがあるが、これは「操作できない」ことが
ストレスではなく、「つまらないストーリーを
読み進める」ことがストレスとなる。

スキップ機能は本来既読の文を読み飛ばすため
の機能だ。
何故読み飛ばすのか。
既にその部分のストーリーは知っているからだ。
(つまりそこには意外性がない)
プレイヤーはまだ先の読めないストーリーを
早く読みたいと期待してスキップする。
(なにが起こるか判らない故に意外性なのだ)

これは、感動的なストーリーでも軽いお笑い系
のストーリーでも鬱なストーリーでも共通する。
確かに多くのプレイヤーは感動的なストーリー
を好む。(特にカタルシス系の感動を)
しかし、多くのプレイヤーはストーリーに意外
性を「必要」としている。
(「トリビアの泉」の「へぇ」も意外性が高い
ほど高得点だ)

一度読んだストーリーを再度読む人もいる。
そういう人には一度目では気付かなかった発見
があるかもしれない。
「意外な発見」、それも意外性の一種だ。

確かに「ノベル的AVG/NVGに求めるものは」と
のアンケートを採れば「意外性」を明示的に
答える人はほとんどいないと想像できる。
ただし、それはむしろストーリーに意外性は
「あって当然」な、空気のようなものだからだ。
どんな感動的なストーリーも、続けて何回も
読めば感動が薄れてくる。
それは新たな発見がなくなるからだ。
ストーリーを読み進める原動力。
それが「意外性」というのが私の解釈である。

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