「表現の自由、その他私どもに存するような一般的自由はそんなものは無い」

 を前提にして、「改憲論」がどこから出てくるのだろうか?

 「おまえは猿だ人間じゃない、死ね」といわんとするようなもので事実彼らは

 「日本国憲法で”規定”されている自由や権利を『猿権』と呼んだ」

 おまけにこともあろうか祝福されるはずの「憲法記念日は屈辱と化した」など

 実に面白くない話を滔々と<されている>。 私どもの憲法やその他の法律

 なんかを否、民事上のモノを勉強する立場にあるはずが? その”知識”−彼ら
 
 が持ってはいけないまた<…の思想を持て>とするもの−が無くては生活して

 いけなくなるしまたそれが私どもの日夜努力しなくてはならないはずのモノが?

 新聞、TV、ラジオ、雑誌、その他彼らがなぜ<その情報遮断>に力を注ぐのか?

 それを検証してみよう?

 彼らの集団−共産的、モノの見方は教祖と同じでなくてはならない

         例えば「個人の観察から生じる唯物史」それに同調するモノ

         それ以外のモノの見方を「特別な方法で排除する」もの。

 私どもの集団−生産的、創造的、挙げればきりがないが?

 「つまり教義を信じていれば”幸福”だ」「日常−非日常の世界は全て異端」

 そんなはずはない、私どもは旅行、娯楽、その他のほぼ教義とはかかわりの

 無い生活を享受していて、「出掛ける」ことも出来るし、教団以外に付き合い

 があるのであり? 宗教的次元とはほぼ異なっているでしょう? 

 つまり教祖が「正しい」と言えば「私どもは”間違い”と知っていても、教祖の言
う

 事が例え「人をある武器で殺せ」と命令すれば、それを行わなくては異端者とし

 て恐ろしい”処罰”が待っているという、とんでもないモノです。

 この辺で長くなるので失礼