新聞報道によると、警察庁長官(権力を国民から直接委託されていない人)が宮城県知事(権力を国民から直接委託された人)を「本来ならば宮城県レベルの話しで、私がコメントするのはいかがなものかと思いますが・・・」と前置きして、捜査用報償費の予算執行停止を行った宮城県知事を批判したとのこと。

 そもそも、捜査用報償費の不正使用が全く有り得ないことならば、宮城県知事の処置は狂気の沙汰でしょう。しかし、国民も警察庁長官自身も宮城県知事を狂気の人と思っているでしょうか。疑惑が有り、情報開示の請求があるならば、捜査協力者名などを除き、捜査用報償費の使用者、具体的事由、金額、日時などの内訳を公示し、被権力(国民)からの血税(他人の金)に群がって不正な利用をしていないことを捜査協力者の不利益と捜査の支障にならない範囲で主権者たる国民に対して説明する工夫や努力をする余地が全く無いのでしょうか。

 「国民のためにどうあるべきか」という「国民から委託された権力の行使の淵源」が無視され、所属組織の保守のため、既得権益の保持のため、あるいは御身保身のためではないかと思われる、哀れで虚しい主張をして国民を無気力無関心に追いやっていないでしょうか。人の親として恥ずかしいことを恥ずかしいことと感じない、上から下まで何かが狂った、そして世知辛く寒い世の中となってはいないでしょうか。

 さて、上記の事例を念頭において本題に入りたいと思います。「捜査上の秘密事項」「国家機密」「行政上の秘密」「情報源の秘匿」・・・etc.とはどのような意味を持つのでしょうか。秘匿とはそれが発覚すると不利益や不名誉を被る事項に対して施すものではないでしょうか。権力の行使は権力を委託した大多数の国民の利益に合致すべきものであることを前提とするならば、秘匿しなければ、大多数の国民に不利益を与える場合のみ権力による秘匿が正当化されるべきではないでしょうか。秘匿すると大多数の国民に不利益を与える場合は権力による秘匿は許されないでしょう。被権力(国民)のためではなく、権力自身の保身のためだけの秘密の保持は権力の行為として許されないでしょう。

 次に、権力の不当な秘匿行為に対し、報道機関が「不正を暴く情報提供」を期待することは「権力の不当な秘匿行為」が存在する限り許されるべきものであり、民主主義を前提とする場合、報道機関の「情報源の秘匿」は権力の不正行使から国民を守るための基本的で不可欠な力学原理ではないでしょうか。逆に言うならば、「権力の不当な秘匿行為」が全く存在せず、国民が権力の行使を鮮明に見守ることができるならば、報道機関の「情報源の秘匿」は許されず、むしろ、「告げ口あるいは内部告発など」は卑劣な行為となるのではないでしょうか。