> > ギリシアの民主主義は、どうなの?
> > まつむら
> 
> ギリシアの民主主義は近代民主主義とはまったくの別物。



「別物」と呼ばれるかどうかが大事なのではなく、その「別物」とされる場合の内容が
大事です。トータルとして「別物」と評価することは一向に差し支えないにしても、今
問題となっているこの事柄に関してなら脈絡を保っている場合が有る、といえることが
しばしば起こりえます。ですからそこを明らかにすることの方がここでは大事でしょう。

質問者が「ギリシャの民主主義は(?)」と尋ねた趣旨はギリシャの民主主義全般をこ
こで質問しているのではありません。ここでは、問題の特定の関心事を解きほぐしたり
解答を与えたりする限りでのギリシャの民主主義なのです。それに対してトータルとし
てのギリシャ民主主義が近代的民主主義と同じか違うかで答えたのでは正しい対応にな
っていないと言うべきです。

このようなちぐはぐは法律問題を語りあるいは法解釈をする段になると問題は倍加する。
すなわち、概念法学という奴です。概念法学者は「定義」と言うものをことのほか連発
する傾向が有ります。勿論定義も重要であることは否定しません。しかしその概念法学
者の主張するところを見ると概念に纏め上げられた多くの内容の中のほんの一部の事柄
に解答を与えるために要求しているに過ぎなかったのです。

ところがそんなほんの一部分の事柄に関してならば既に双方にとって一致した認識が有
り、ただその概念法学者のみが今必要でないところまでも含めて「定義」、「定義」と
要求していたという滑稽な話も決して稀では有りません。

これはひとり法解釈のみならず言葉で議論すると言う場合には共通に起こる問題です。
<論理的に説明する>と言うことがよく言われますが、たとえば学校でやる数学の証明
ならば単に説明することそして説明し切れればそれで100パーセント十分です。しか
し、多くの社会的な事柄に関しては説明すること自体あるいは説明になっていること自
体が最終的な目的では有りません。現実に事柄がどうなければならないかどうあって欲
しいか、という優れて実践的な問題なのです。法律学に於いてはここでもそのことは顕
著です。利益配分関係がどうなるのかが最終的な関心事だからです。

したがって事柄の「実体」が何も変わっていないのに理論的に説明しにくくなったから
と言って、今度はその立てた概念表現の方を操作してあたかも表面上論理感を持たせた
かのような説明にし直すなんてことは法律学に於いては勿論、議論一般においてさえあ
るまじき行為と言わなければならないのです。


     冠される言葉や表現は「実体」に劣後する。「実体」に何も影響を
     与えないような言葉や説明はそれらがいかに美しく理路整然とした
     ものであっても真の議論とは言えない。


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KENTAROU


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