正しい議論とか誤った議論とか、また、議論というものを知っているとか知らないとか、
このfj.***でも軽軽しく語られる場合が有る。しかし、このように語る論者をよく見る
と、ただそれを言うだけであって、<何が本当の議論か>について言及していないのが
殆どである。だとすると、「少なくとも」この点に関する限りはこのような論者こそが
「誤った議論をする」者かあるいは「議論と言うものを知らない」者であろうと思う。
なぜなら、議論は感想文ではない。感想文でない以上、自己の結論のみを語るだけでは
その域を一歩も出ているとは言えないからである。

これについて反論めいた意見を聞くことが有る。自分がそれを語っても相手が理解でき
ないであろうし、また、そのような相手に語ることは時間と労力の消耗になるから自分
はそれを語ることをしない、と。この意見は極めて不遜な気もするがぼくは必ずしも嫌
気するほどの意見ではないと思う。リアリスチックに言うならばだれでもそのような気
持ちは有るはずだからである。問題はそれが嫌気すべきことではないとしても、結局は
「議論」とは言えないことをその論者も実践してしまっていると言う点にある。そこで、
ぼくは次のように考えてみた。

(1)「議論」と言うのならば二重手間を厭わず最低でも当該記事の中に簡略化は否め
ないにせよ「議論の形式」を「全て」踏むべきではないか。大前提、小前提、結論、あ
るいは簡単には理由と結論としてもいいと思う。その場合、我々は事実の部分と自己の
価値判断の部分との区別を明確にしなければならないであろう。議論ならば結論を除き
議題に関する全てを「他者との共有化」すなわち客観的認識の下に礎底するのが理想だ
からである。(なお、この点で、同一スレッドの何本か前の記事の中で触れているから
今回のは議論と言えない形式ではあっても自分のだけは完全な議論である、と主張する
者があるが、それは甘えである。何本か前に触れたとする証明がないばかりか、実際は
そう言う論者に限って触れていないのが普通。)

そうだとすると、所謂評価的文言とそうでない文言との区別も意識して議論を進めるこ
とでなければならないであろう。ここで言う「評価的文言」とは、例えば「醜い」と言
うような言葉である。これは何も客観的な事柄を指し示してはいない。「醜い」か否か
は人それぞれが違う内容を頭に描くものだからである。或る論者は、「定義」が明らか
にされない以上議論は成り立たないという。厳しく言えばそうと言えなくもない。この
論者の姿勢は今回の当方の記事と趣旨を同じくするものと言えよう。しかし、もし、当
該論者が「醜い」などの所謂「評価的文言」を用いる限りは自己矛盾の誤りを犯してい
るとの謗りは免れないことになる。

(2)さて、話をすすめよう。以上のような議論を標榜するのであれば、未だにfj.***
で反省されずに挙行されている奇行(奇稿か)、すなわち他者の記事を細分化し、文章
の立体性を読解できずに上から順番どおりに一々反論や誤謬の指摘を企て、挙句の果て
には難癖までもコメント風に添えるというやり方は自重すべきではないのか。逆から言
うと、そのような安易な手法をとっている限り所謂「議論」などは本来的に成り立ち得
ないのではないか。思うに、成り立っていると主張する論者は自己の記事について誤っ
た過大評価をしているのであり、もちろんそれは主観に過ぎない。

そもそも、細かく再分化したそれぞれに犬の小便のように数多くの意見や反論を「議論」
の性格を失うことなく実践することなど不可能なことではないのか。fj.***の主要な論
客であられるWacky氏にしてもMasako氏にしてもShinji氏にしても、またYamちゃんにし
てもRaikouちゃんその他の方々にしても、そのような手法で「議論」の性格を失わずし
て語ることなど出来よう筈がない。誤解していただきたくないのは「議論」する能力が
ないとか言っているのではなく、結果として「議論」にはなってないと言っているので
あって、「議論」になっているようでも、そこには語るほうも聞く方も「甘え」を介在
させて眺めているに相違ないのである。

(3)今、署名について問題になっているが、そのようなことを議論するよりもこちな
の議論をするほうが健康な気がする。勿論これはぼくの感想。

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KENTAROU