Path: ccsf.homeunix.org!ccsf.homeunix.org!news1.wakwak.com!nf1.xephion.ne.jp!onion.ish.org!onodera-news!newsfeed.media.kyoto-u.ac.jp!headwall.stanford.edu!newsfeed.stanford.edu!postnews1.google.com!not-for-mail From: kentarou21@jcom.home.ne.jp (KENTAROU) Newsgroups: fj.news.usage,fj.soc.law,a.bsu.programming Subject: =?ISO-2022-JP?Q?=1B$BDxEY$NDc$$K!N'O@$HDxEY$N9b$$K!N'O@=1B(B?= Date: 8 Aug 2003 01:57:26 -0700 Organization: http://groups.google.com/ Lines: 79 Message-ID: <6734b3b.0308080057.5c34a788@posting.google.com> NNTP-Posting-Host: 219.12.248.29 Content-Type: text/plain; charset=ISO-2022-JP Content-Transfer-Encoding: 8bit X-Trace: posting.google.com 1060333047 21079 127.0.0.1 (8 Aug 2003 08:57:27 GMT) X-Complaints-To: groups-abuse@google.com NNTP-Posting-Date: 8 Aug 2003 08:57:27 GMT Xref: ccsf.homeunix.org fj.news.usage:3574 fj.soc.law:638 <問い>次のような見解を述べる論者がある。論評せよ。 > >だいたい法律論なんだから > >「程度の低い、高い」というのはないですな……。 > >「間違っている、正しい」はあるけれど……。 さて、タイトルに掲げる内容を語るにはこの見解を論評すれば済むでありましょう。 例を挙げましょう。 (1)偽証罪に言う偽証とは<自己の記憶に異なることを敢えて述べ証言すること である>と言うのが学説にあります。ところが或る論者はこれは学説にとどまらず、 判例でもあると言うのです。たしかに二三の参考書や教科書にはそのように記述さ れているものがあることは当方も知っております。 しかし、それはその著者が自分の理解として語っていることであって判例が「当裁 判所は学説に言う主観説に立脚するものである」などと語った場面は一度も無い。 ところが或る脳天気な人がその著者の書いたテキスト等のクダリを読みそれに少し の疑問も差し挟むこと無しに鵜呑みにし、そのまま写し取ったように、つまりテキ ストの著者はその著者なりに分析を企てた結果の理解を示しているがその人はその ような分析を経ずして結論のみを真似して、ハイこれが判例です、としてしまって いるわけです。これは所謂「程度が低い」者の「程度の低い」議論でなくてなんな のでありましょうや。 ところが判例が偽証に関する見解を述べたようなところが無いかを探し、そこで語 られたところを自ら分析し、皆は判例のこの部分を捉えて主観説を述べたものであ るかのように受け取っているが果たして本当だろうかともう一歩突っ込んで検討す る姿勢は、少なくとも誰かの著者の評価をそのまんまマル写しをすることなどより は明らかに「程度が高い」と言っていい。 なぜなら、誰かが既に著した書物の中の評価をそれを見て丸写ししてオウムのよう に繰り返したからと言ってその著者の評価以上の新たな何物をももたらすものとは なり得ない。ところが一般に判例を評して主観説のように語られてはいるが違うの ではないか、との姿勢は少なくとも既成の理解に何物かを付加する志向性を持つ行 為である。つまり、この新たな内容を付加する志向性を持つ議論か否か、これがす なわち「程度の高い議論か否か」を決するメルクマールに他ならないのです。 (2)逆に法律論に「間違っている、正しい」はあるけれど……、というような実 しやかな見解は果たしてマコトか。ウソ吐きマコトではないのか。 法を論ずる目的は大げさに言えば正義の実現と紛争の解決であります。そしてその 両方に共通するのが当事者の利益配分関係(=結果)が「妥当か否か」と「公平か 否か」に他なりません。もし結論としてそのことを踏まえようとするものである限 りは評価や価値判断に相違があるにせよ「誤り」だとか「正しくない」とかはあり えないのです。他から見れば「不当」「妥当」はありえようが「正しい」とか「誤 りだ」とかはありえない。キッパリ! 論者はなにか推論過程の矛盾やズレを捉えて誤りであるか正しいかが法律論に存在 するかのように誤解をしているのかもしれない。しかしそれは法論というものを知 らないものの見解である。敢えて言うならばそれは「説得力」の強弱に影響する事 柄であって「誤りか否か」の問題ではない。 かくして笑い話のように受けととられるかもしれませんが冒頭論者の見解とは真逆 さまの結論に辿り着いたことになります。(大笑い) (3)皆さんへのお願い。読者の皆さんには法を語るとは何が大事かをお汲み取り になってfj.soc.lawに気安くご参加願いたいものであります。法律用語や条文など 正確に知らなくともあるいは法理論など知らなくともさらに判例や通説とか訳のわ からないことなど知らなくとも一向に構いません。そのようなことは法を語ること の本質ではないからです。「結果の妥当性」と何が正義であり何が公平かのみに力 点をおいて、思う存分にどしどし自己の「価値判断」を示していただきたいのです。 何度も申し上げて恐縮ですがそれこそがすなわち法を語ることに他ならないものだ からです。             注:これは悪戯ではありません。一流の大学の教師に尋               ねると同じ事を言われるはずです。ただし、専門学               校の教師では無理。彼らは法律の意義を知らない。 -- もう夏ですね、風鈴の囁きはいかが? ちり〜ん、チリンチリンちりり〜ん KENTAROUですた