fj.soc.politicsに一年間以上ご登場の方々はこの辺でこれまでのご自分の主張を振
り返ることがあってもいいのではないか。中には痛烈に政府(内閣やその長としての
総理大臣)や個々の国会議員あるいは地方政府等を批判するものがあった。そして
それは極めて当を得たものもあったけれども残念ながら的外れのものもあった。

そういう中で、ぼくが思うに、どちらかというと国民のだらしなさを批判する見解が
少なかったような気がする。こういうぼくはなにも「モノを言う場合にはまず国民自
身が自分の身を綺麗にせよ」というようなことを言おうとしているのではない。内閣
の仕事あるいは国会議員の仕事と同様に政治のメカニズム中の総体としての国民の仕
事という捉え方は可能なはずで、そうした場合には我々国民がこの<総体としての国
民>を我々個々の国民とは異なる存在として批判の血祭りに挙げるという志向性も他
の場合に劣らず必要なのではないかということなのです。

なぜ、一見大差ないともいえるこんなことをわざわざ言うのか?衆愚と化した総体と
しての国民は賢明な国民とは別物であります。これまではこの辺のはっきりした認識
に乏しかったように思う。例えば、しばしばマスコミが批判にさらされるがマスコミ
はマスコミにとどまる限りはたいして危険なモノとはなりえず、ところがこのマスコ
ミが国民に影響を与えエセ国民として総体意思を形成した時に大きな脅威となって発
覚する。これまではこのような場合についてはマスコミ(だけ)が問題だとの一点張
りの見方をしていたと思う。けれどもそれを鵜呑みにした国民が問題なのであり、そ
れならば直接端的にその総体としてのエセ国民を批判にさらすことのほうが重要であ
ろうと考えるからなのです。

             国民は決して悪をなさないとする考え方は古い

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KENTAROU