Re: 8月6日
"joney" <joney@abelia.ocn.ne.jp> wrote in message news:<bf8q3n$e4r$1@nn-tk106.ocn.ad.jp>...
> 非核3原則反対。なぜならそれは原則論であって
> 但し書きがあってもよいはず。(憲法9条およびCTBTの規制はあるが)
但し書きがあったほうが明確でいいでしょうね。しかしぼく自身は但し書きなどなくとも
核は持てると思っています。すなわち法の解釈によって可能と考えるのです。ここでは法
の解釈と言うものにちょっとだけ触れるだけに留めます。
法は我々がそうであると同じように同じ事を指し示すにも種々の表現をとります。けれど
も法文あるいは多くの法文からなる法律あるいは法典は全体として論理矛盾や価値矛盾が
起こらないものとして存在しています。例えば一つの条文の文言は平和のうちに生存する
権利(人権価値)を認めようとしているがもう一つの条文の文言はこの権利を否定するよ
うな趣旨になっているとした場合、たといその部分の表現からはどう見てもそうとしか採
れない場合であっても、法(=規範)は矛盾の有るまま存在することは有りません。なぜ
なら、法は理性的であることが前提されているからであります。法は矛盾したり価値衝突
が起こるようなことは言わないし言うはずがないのにどう「見ても」言っていると読めて
しまう場合はその読み方の方を変えなければなりません。で、どのように読み方を替える
のか、これが「法解釈」であります。
卑近な例を挙げましょう。ここのニュースグループに顔を出す投稿者と閲覧者は皆さん例
外なく理性的人間であることが前提です。例えば、だれかが急いで喋ったために「言いか
ねる」と言ってしまったとしましょう。しかしそれでは意味が通じないかあるいはこれま
での話の流れから趣旨が狂って来たような場合には理性を働かせて「言いかねない」と言
おうとしたのであろうと受け取って話を聞くはずです。この受け取り方と同じ事をするの
が「法解釈」なのです。
また、法規範は有る事実が前提されている限りで通用すると言う場合が有ります。したが
ってその事実状態がもはや存在しなくなったり変化した場合には、この「法解釈」は必然
的に顔を出さなければならないはずです。非核三原則も一定の事実があってのものであり
また一定の事実に向けられたものであって事実が変化したり違った事実に向けたものとし
ては規範の趣旨が異なると考えることは十分に可能なのです。
非核三原則は<持たず><作らず><持ち込ませず>の三原則を指しますが、歴代の日本
政府は繰り返しこの三原則を踏襲し確認して今日に至っています。しかしぼくはこれは現
在及び将来の日本国と日本国民に対して取り返しのつかない失態を演じてしまったのでは
ないかと疑っております。けれども、この失態を元のまともな状態に戻す作業は実は大変
です。我政府は1970年に核拡散防止条約(NPT)に調印し1975年に国会の批准を受けまし
た。また、法律上も原子力基本法を制定(1955)しております。それ以前にやっかいな憲
法第九条が有ります。
しかし、憲法にしろなんにしろ、法解釈にさらされざるをえません。それから逃れること
はできません。そして法規範は我々が作るものだとの姿勢を堅持すると同時に法の解釈を
裁判所だけにさせておいて我々自身はそれに従うだけだけと言うような家畜みたいなみっ
ともない国民性にオサラバしなければなりません。国会が作った法律は時に<衆愚>の産
物に過ぎないとした場合には尚更のことではないでしょうか。
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KENTAROU
Fnews-brouse 1.9(20180406) -- by Mizuno, MWE <mwe@ccsf.jp>
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