常磐周辺支線直通 (Re: 常総線(Re: 真岡鉄道/その先は?)
古寺@嶋田さんが「奥久慈」程度で歳がばれる発言をされるとは、
むしろケムに巻こうとしているように見えるです(^^;
"Sawaki, Takayuki" さんwrote:
>
> "SHIMADA,makoto" wrote:
> > Sawaki, Takayuki wrote:
> > > あと、海水浴時期に茨城交通への乗り入れ(上野-阿字ヶ浦)
> > > なんてのもあったとは聞いたことがありますが、急行「あじがうら」
> > > なんていう、そのまんまのがあったんですね。
まんま名称というと、同時期に同目的で運転されてた、確か水戸線から
来る普通(主要駅停車だったかも)臨時の「かわらご」というのも有りま
した。
#これは、転職前の転勤先で同方面に赴任した際には既になかったなぁ。
> > これの廃止の契機が確か例の信楽高原鐵道正面衝突事故
> > だったと思います。あの時、マスコミなどで他社乗り入れが
> > すごく危険視されました。
>
> え、そうなんですか。てっきり利用客の激減のために中止されたんだと
普通はそうでしょうし、「とどめを刺した」レベルの話をするならまず
車両の確保が困難(同線気動車急行廃止後、よく格下げ使用中の58系を
確保してあれだけ続いた)先で。
> ばかり思っていましたが、あの事故がとどめの一撃になったんですかね?
要素としては有り得なくも無いでしょううけど、無理矢理な感じも。
ここは国鉄時代に貨車の直通をやっており(で、急行時代の「あじがう
ら」を始めて見た時、私は混合列車の普通を利用していた^^;)、
都市部の相互直通運転を例に引いたら大袈裟ですが、富山地鉄や秩父
鉄道や大井川鉄道とちょうど同列にあたるような直通路線です。
#毎日運転の定期直通として、富士急や島原などが更にちょっと上な
#感じがしますが、体制的には同等かと。貨車は定期だったでしょう
#しね。
要するに、国鉄の民営化、それにともなう鉄道事業者の制度の一本化、
同時に進められた当時のトレンドである規制緩和(実に多種の認可必要
だったものが届出に)の状況下に、地方交通線の分離で直通性が損なわ
れる傾向にあった不満から機動的に直通をやって(復活して)というニー
ズが強いところで、連絡体制も「?」な事業者間でバタバタとやってし
まった〜という類の即席感も有る直通の事故とは切り分ける必要が有る
なと。
信楽も旧国鉄線で、一見するとレジャー臨時直通は、ほぼ分離を挟んで
連続的に行われていたんじゃないか(列車の歴史としては即席ではない)
と思いますが(それこそ嶋田さんがすごく詳しそうな方面:-)。
ただ、信号の論理回路上明らかに接続駅や中間信号所で、下り側に青が
現示されていても不思議はない状態(信楽側赤ロック)で、JRからの車両
が路線内に進出したかどうかを一切担保せずに無閉塞で列車を出してし
まうという処置を取れ、その辺異常時の扱いをどうするかの事前の打ち
合せ不足は否めないからJRも責任取れみたいな話でしたよね。
#信楽側にJRとの信号回路の境界部分で未知の部分が有ったからJRの
#方が悪いという考え方は、いくらなんでも通らなかったと思いますが。
#直接の、正しく動いてしまった信号を守る守らないが優先するわけ
#で。
##運転士を借りた状況で、自線内の列車を他社管理下のようにいう
##(本来は自ら完全に制御下に置かなければならない)意図が、直通
##運転の仕組みをちょっとかじっていると理解できない...という
##議論が昔有りましたけど。結局謎で残りましたが、法定戦術だっ
##たと考えて忘れるしかないのでしょうか...
で、まあ茨城交通の場合、直通列車を自社の列車として完全に掌握し
た運行はちゃんと出来ていましたし(つうか、自社列車同士でも交換
有りのダイヤがもともと有るなら原理的に直通列車で安全度が落ちる
のは有り得ないんで、直通が無ければ交換も無いという条件が非常
に特殊)、あの事故で既存の体制を継続している事業者がやりにくく
なった要素は無かったはずです。
さすがに「届出」のチェックは厳しくなったでしょうし、新規に始め
ようという動きはそぐ事にはなったでしょうけどね。
むしろ時期が重なったとは言え、DC列車をダイヤが高速化した架線下
で走らせにくいとか、融通の効く(直通可能な)車両の後継が無いとか、
現に「やりたくても(簡単には)不可能な要素」がやめたところには
ことごとく有りますし。推測をするなら、上の要素を考える以前に決
定した事例ばかりの可能性が大きそうな。
で「あじがうら」の末期ですけど、夏赴任地から帰京する際に上りで使っ
てみた事が有ります。休日の暑い日ですが、いかにも海水浴!って感じの
旅客は免許年齢に達しない感じの喧しいグループ客が数組。これはうる
さいのには覚悟がいるなとおもっていたら、勝田までに皆降りてしまい
ました。以後は、たまたま来たので乗ったという感じの用務客ばかりで
したね。'90年前後だったか...
上野行き快速には始発の取手から乗った方がいいかな?と思いつつも、
夕刻の上り方向だし、成田発のタイミングかもしれないしと我孫子まで
乗り通し。取手発車後に信号に詰まって利根川上でノロノロしたら丁度
花火だった...なんて記憶が残っています。別にサービスで徐行したわけ
では無かったようでした。
確か転職して、茨城を離れる1〜2年前には水郡線を全て新型DCに交換
(ただし両数を絞る)しており、その直前数年も水戸配置は原則キハ47あ
たりしか見なかった記憶で。最後まで水戸の急行型を使っていたんだっ
たか自信が無いのですけど、ちょっとあれだけの利用者でよくあんな
時期まで残していたなぁ、どっちみちもう充当できる車が...って感じ
でした。
昔、茨城県南部がベッドタウンになり出した頃に引っ越した親戚に、県
内1泊程度のレジャーによく呼ばれ、'76〜'80年頃のこのあたりの記憶
も有ったりします。牛久から水戸方面は土浦で急行に乗り換えても特別
早く付くような緩急接続ダイヤじゃ有りませんでしたから、定期普通ば
かりでしたが。デッキまで一杯の朝の仙台行き客車普通にどうにか乗り
込み、勝田に着くと混合列車が待っている。那珂湊まではアイドリング
で貨物の後ろに付いて行き、那珂湊から自走。確か阿字ヶ浦は2線は
有って、ここで折り返し待ちの「あじがうら」を見て自社DCと混結に
なってるのを見たんじゃないかと。
当時まだ、交換駅が那珂湊のみなんて状態では無かったと思いますが、
それでも容量一杯の輸送をしつつ客が溢れてるほどで、「あじがうら」
にダイヤを取られる定期列車運用のDCを混結してたんじゃなかったかな。
末期は客も減ったしJR車両に振り替える形だったと思います。
「奥久慈」の方は、何往復も定期で走っていたんで、観光やシーズン
輸送より割と安定した対東京圏輸送が(それなりに)有ったように見えま
した(これも同じ事情で普通から眺めたのみ)。
ただこっちの方はむしろ定期という事で、DC「ときわ」の維持が難しく
なった時点でサクっと無くなってるんですよね。
筑波行き直通臨時普通「つくば」(?)の方が後まで残ってたんじゃ...
といっても、DC「ときわ」と支線直通廃止、(昼間)急行自体廃止、筑波
鉄道廃止ってほとんど立て続けでしたっけ。
思えば、常磐道が全く無い頃のこのあたりの支線直通需要って、今とは
全然違ったなぁ。
Fnews-brouse 1.9(20180406) -- by Mizuno, MWE <mwe@ccsf.jp>
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