裁判官がおかしい
裁判官がおかしいとは、私が前々から指摘してきたが、
私が言いたかったことが書いてある本を見つけたので紹介する。
まつむら
裁判官が日本を滅ぼす 門田隆将著 新潮社 1500円
ISBN4−10−460501−8
まえがき
日本の裁判とは、果して「真実」が争われるところだろうか。
そんな根本的な問いに、あなたはどのような答えをするだろうか。
たいていの人は、あたりまえだろう、といい、なかには何を馬鹿げた
ことを間くのか、と怒る人もいるかもしれない。
しかし実際には、日本の裁判は、「真実」を発見するところではなくなってい
る。
正確にいえば、日本の多くの裁判官には「真実」を炙りだす能力も識見もない
し、
そもそも真実を導き出そうとする意欲もないのである。
「そんな馬鹿な」
誰もがそう思うだろう。しかし、いつの頃からか、日本の裁判所は
単なる「法廷ゲーム」の場に成り果ててしまった。
そこで争われるのは、驚くべきことに真実や正義ではない。本当の
真実とはほど遠い、単なる「訴訟法上の真実」が法廷でのテクニック
を駆使して争われているだけなのである。
そして、ほんの少し手を伸ばせばそこにある「本当の真実」に、
裁判宮の多くは近づこうともしないし、国民に期待されているその
本来の役割を果たそうとする使命感も問題意識もなくなっている。
つまり、彼らは革なる法廷ゲームの審判員という存在に自らを貶めてしまったの
である。
本書は、国民の多くが誤解しているに違いない裁判所の真の姿と、裁判官という
人たちの特殊
な人間性、そして彼らが足をとられている陥穽を明らかにするものである。
そのために、さまざまな実例を検証していこうと思う。
そして、裁判官が、結果的に公僕という国民の奉仕者である本来の役割を完全に
捨て去って
しまった実態を少しでも知っていただきたいと思う。
ただし、本書は単に裁判官を批判し、弾劾するためのものではないことを断って
おきたい。
外部からの指摘や非難に晒されることなく、黒い法衣をまとって人を高いところ
から見下ろすことだけに慣れきった裁判官たちに、もう一度、国民が裁判に対し
て何を望んでいるか、そしで裁判官に何を期待しているか、根本的な問題を
当の裁判官自身に振り返って欲しいと思う。
かつて司法修習をする法律家の卵たちに諳んじられていたこんな歌があった。
秋の夜を ひたすら学ぶ六法に 恋という字は見いでざりけり
青春のすべてを擲って六法全書と格闘する法律家の卵たちの思いが詠まれた歌で
ある。
そしてこれには、こんな返歌が存在する。
民法典 七○九条に故意という文字のありけり 嬉しくもあるかな
〃恋〃と、民法における「故意又は過失」の〃故意〃をかけたユーモラスな返歌
である。
しかし、この返歌には、いかに自分たちが無味乾燥な世界に生き、浮世離れして
いるかが思わず吐露されている。いまだに語りつかれているこの歌には、法律家
たち
のエリート意識と、微妙なコンブレックスが見事に現れているとは言えないだろ
うか。
裁判官は、その司法修習生の中でも、エリートと目される人たちが目指す職種
だ。
彼らの多くは、使命感を持ち、国家を自分たちで動かしていこうという思いさえ
持つ
スーパーエリートである。実際にそういう意識を持つ裁判官は少なくない。
しかし、同時に六法全書とだけ向き合い、人並みの恋も知らなければ、人と接触
する
ことさえ自信がないような人たちも少なくない。裁判官の大多数は、週刊誌も読
まな
ければ、テレビのバラエティ番組も見ることはない。実際に、〃恋〃といえば〃
故意〃と
しか反応しない人が、一人の人間の人生を決定づけるような判決を裁判官として
日常的
に下しているのである。彼らは、たとえ法律のプロではあったとしても、果して
社会の
常識を知り、正義が何たるかを理解しているだろうか。物事を謙虚に見る姿勢を
持ち、
社会でのさまざまな経験によって得た常識を積み重ねた上で、彼らは正しい裁き
を
おこなっているだろうか。いうまでもなく、裁判官に求められる最大の能力と
は、
法廷に出された証拠から正しい事実記定をする能力である。しかし、これはいく
ら青春
を犠牲にして六法全書と格闘しても、あるいは司法修習などの専門教育を何年受
けよう
とも身につくものではない。少なくとも、世の中を法律がすべてだと思い込み、
エリート意識や誇りだけに凝り固まった人間に、備わるものではないだろう。
ギリシャ神話に出てくる正義と法の女神「エスティティア」をご存じだろうか。
右手に剣を、左手に天秤を持つこの女神は、法の精神を表した神として司法、
特に裁判官の世界で崇められている。
剣は正邪を断ずる強さ、天秤は公平を象徴しているという。
与えられた正邪を断ずる権力に基づき、公平な立場から、証拠上、優位な方を宣
言する
崇高な使命を負うのが裁判官だという誇りなのだそうだ。
しかし、この女神にはもう一つ、大きな特徴がある。
それは、女神が”目隠し”をしているということである。
裁判官は予断や偏見を一切拝し、心眼で判断しなければならないという尊い意味
を、
これは指し示しているという。この正義の女神像は、実は、日本の最高峰である
最高裁判所
にもある。
正面玄関を入り、大法廷へと続くホールの、壮麗な大理石の階段を上がる手前右
側にその像はある。
高さ一メートルあまりのプロンズ像だ。
しかしこの像には,なぜか目隠しがない。どの国でも「ユスティティア」像には目
隠しが
施されているのに施されているのに、最高裁のそれには、なぜか目隠しがないの
である。
しかし本書を読み終わったとき、読者にはその理由がおぼろげながらわかってい
ただけ
るのではないか、と思う。
公平と公正を象徴するはずの”目隠し”が最高裁の「正義の女神像」にはなぜな
いのか。
正義が何たるかを忘れ、世間知らずで非常識な存在でしかなくなっている
日本の裁判官を、その像は痛烈に皮肉ったものにほかならないことに気づ
いていただけるのではないか、と思う。彼らは今、傲慢さとエリート意識
だけに支配ざれ、正しい〃事実認定〃ができず、多くの訴訟当事者を憤然
とさせている。そして、彼らは、戦後日本が培ってきた言論や表現の自由
という国民共通の財産さえ危機に晒している。本来、社会正義を実現する
ために理想に燃えて任官していった多くの裁判官が、いかなる過程でその
根本を失い、逆に社会正義にとっての大きな障害となっていったか、その
病理と、日本の民主主義を守るために、彼ら裁判官への監視がいかに必要
になってしまったかということを、本書を通じてご理解いただければ幸い
である。 筆者
Fnews-brouse 1.9(20180406) -- by Mizuno, MWE <mwe@ccsf.jp>
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