みんなのケンちゃんさんの<c1g203$t8k$1@news-est.ocn.ad.jp>から
>MAC屋けんちゃん wrote:
>
>> 屠殺場につながれていく牛でさえ、直感で死刑を感じ取り、路上で座り込む。
>> 激しく鞭打たれながらも、言葉無き牛でさえ、動こうとはしない。
>> わが国民は、言葉を持ち、善を愛する良心を持ち、善を知る理性を持ち、善を
>> 選択する自由を持っているにもかかわらず、
>> 屠殺場へとつながれていく。
>> 今、なぜ、ルソーなのか、
>> ルソーは、隣人のごとくに我が民に甦ってこなければならない。
>> 
>> 政治社会が成立するためには、支配・服従関係が伴う。
>> 構成員皆が納得でき、成立後も自由と平等の関係が保たれる支配とは。
>> 
>> ルソーの解決策は、
>> 共同体から私的意志を論理的に排除し、一般意思(全体の保存と幸福に注意
>> を払う公共の意志であり、公共の善)に構成員を全面的に服従させること。こ
>> の共同体こそ、ルソーの支持する国家。主権者たる人民が国家の私的意志で服
>> 従させられることがあってはならない。
>> 
>> 人間が真に自分の主人になるために、自らを無私なる全体に譲渡することで、
>> 自由は道徳的自由にまで高められるとする、ルソーの自由とは、このような私
>> 的意志を排除した(一般意思をもつ共同体である)国家と人民が、相互的な約
>> 束を持続させることを前提とする。
>> ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
>> 「自由になるように強制されること」これが人民主権の真髄であり、自由の
>> バロメーターだ。
>> 
>> 自由は道徳的自由にまで高められてはじめて、啓蒙思想は完成する。だが、わ
>> が国に、姑息な私利私欲のエゴ的自由ののぶつかり合いはあっても、道徳的に
>> まで高められた自由があるか。
>> わが国民の自由への確信のなさ、努力のなさが、人民自らをして、屠殺場に向
>> かう牛にももとる民におとしめている。
>> 
>> 改憲を論ずるときではない。国体を構成する人民が人民主権に目覚め、「自由
>> になることを強制される」人民主権を、まず国民に敷衍しなければならない。
>> それがすべての始まりである。経済改革も、行政改革も、この一点にかかって
>> いるではないか。
>
>宮下ちゃん、すばらしい投稿です。
>
>しかし、これをいくら叫んでも如何ともしがたい。政治を語るとは相手が聞いて
>くれなくとも聞かざるを得ないようにもっていこうとする営みであります。言う
>事を聞いてくれればよくなるじゃあ、「道徳」の時間です。
>
>それに、「自由になれるように進んで強制される事」とおっしゃいますが強制さ
>れるときは真に自由ではないし、「こうすればああなる」というときの「こうす
>れば」が「必然」で有る事を実証しなければ理屈倒れ。マルクスは頭がいいから
>この事は射止めていた。しかし、「必然」でないものを「必然」にする過ちを犯
>した。ルソーさんも過ちー2号(マイナス2号)ですね。
>
>ルソーはたしかに「夢」を与えてくれましたね。マルクス君も然り。しかし、生
>まれた土地が違うためにマルクスくんよりは頭が悪かった事は確かなようです。
>
>--
私は、宮下氏ではありません。

団藤重光の個人の利害をこえた主体性は、ルソーの一般意思(全体の保存と幸
福に注意を払う公共の意志であり、公共の善)と通じているだろう。
現憲法では公共の福祉などの概念に盛り込まれている。君の団藤の法論陳列投
稿で、いまだ主体性についての文言は出てきてないが、ルソーの一般意思との
連関を解説してもらおう。


>みんなのケンちゃん