KGK == Keiji KOSAKAさんの<buthi3$lsl$1@film.rlss.okayama-u.ac.jp>から
>! "<3ff78db7$1$19835$44c9b20d@news2.asahi-net.or.jp>" という記事で
>!     Sun, 04 Jan 2004 12:52:37 +0900 頃に wacky  さん は言ったとさ:
>
>> KGK == Keiji KOSAKAさんの<bs6lgj$mck$1@film.rlss.okayama-u.ac.jp>から
>>> 「優れている」というのは真似をする理由になるけど、真似をする理由になる
>>> ものは他にもあるでしょうね。
>
>> んだから、
>
>>>>>>> で、その行動規範がすぐれていれば、真似する人が多くなり、「多くの人が共
>>>>>>> 有する行動規範」となるわけだ。
>
>> というKGK氏の主張は正しいとは言い難い話だよね。「優れている」としても
>> 行動規範になるとは限らないのだから。
>
>まあ、いつでも正しいというつもりじゃなかったですから。

よろしいですよ。

>: で、その行動規範がすぐれていれば、真似する人が多くなり、「多くの人が共
>: 有する行動規範」となったりするわけだ。
>
>の方がニュアンス的に近いかな?

まあ、「そうなることもある」程度の話でしょうな。個人的には、規範自体の
優秀さ云々よりも規範の求めるコストの多寡や普及の為に払う努力の方がファ
クターとしてずっと大きいのではないかと思います。


>>>>> 「迷惑が発生したかどうか」というのは「結果に対する判断」です。
>>> 
>>>> その判断は*誰の*判断なんですか?
>>> 
>>> 「結果に対する判断基準」があれば、誰が判断しようが同じことですね。
>>> どっちにしても行動規範で決まるようなものではない。
>
>> その「結果」ってのが「俺様が迷惑を感じた」だったりすると「誰が判断しよ
>> うが同じ」になんてならんでしょう。だからこそ「その判断は*誰の*判断なん
>> ですか?」と問うているわけ。
>
>騒音に関して音量(とバックグラウンドの比)で判断し、悪臭に関して特定物質
>の濃度で判断するように、煙草に関してもニコチンや一酸化炭素などの濃度で
>判断するのがいいでしょうね。

そうそう、その通りです。
であれば、「俺様が迷惑を感じた」なんて個人的主観に頼った判定が考慮の対
象とならない(あるいは非常になりにくい)ことも分かるよね。

で、客観的な基準であるからこそ行為そのものとの関係性を見極めやすく、従
いやすく実行しやすい規範となるわけです。


>>> 「結果に対する判断基準」が比較的ゆるやかに変化すると仮定すれば、行動様
>>> 式が変わったとしても、それに適した行動規範は、ほぼ自動的に決まります。
>>> 例えば、喫煙者が増えようが減ろうが、また、どのような喫煙行動だろうが、
>>> 「ある一定濃度以上の煙草煙が迷惑になりやすい」といった形の基準がそう変
>>> 化するわけではないでしょう。
>
>> そりゃ行動規範そのものであって「結果に対する判断基準」ではないでしょ
>> う。なんてったって「なりやすい」って話だし。
>
>行動規範ってのは、例えば、「ある一定濃度以上の煙草煙を他人に吸わせない
>ためのやり方」とかそういったものでしょ?
>行動の基準なんだから。
>
>で、「ある一定濃度以上の煙草煙を他人が吸った」ってのは結果なわけ。
>その結果を許容不可な迷惑と認定するかどうかが、「結果に対する判断基準」
>ね。

だから、「結果に対する判断基準」に留まっていてはならないのはそれが常に
*事後の判断*でしかないから。行動規範とするには行為の前に結果を予測する
に足る基準が必要なわけです。

それを行為者個人個人の経験の蓄積に求めるのは非効率的だし、効果も薄いで
しょう。
#常にノービスクラスの喫煙者による迷惑を受容することになるので平均的迷
#惑濃度としては高止まりになる可能性が高い。

-- 
wacky