募金をしない信者は、働かない蟻と同じか。
募金してもらえない教祖は、托鉢を受けられない僧侶とおなじか。
募金、お布施、お賽銭を禁止する宗教は存在するか。

つまり、金の匂いのない宗教は皆無である。
宗教は生きているからでしょう。生きているものは金を食う。
新陳代謝をするにあたり、動物も植物も回転するものを体内と対外に循環させてい
る。
小動物という存在は、それを食う生物にとっては回転する水と同じ。
金は宗教が生きるための、単なる水。

政治家にとっての金も、新陳代謝の水。

とすれば、金とは、水や空気のような環境であり、環境の中の分子。文明においては
水のようにカネが分子となっているということ。
カネに清潔な宗教も政治も、カネこの世に存在し得ない。
カネに清潔であるかどうかが問題ではない。水が生命を脅かさない清廉な水かどうか
が問題であるように、清廉なカネであるかどうかが問われてきたに過ぎない。
だが、カネが風呂にはいるわけではないのだ。

カネを生む手段が清廉かどうかだが、清廉のみの場ばかりではない。カネは、清廉な
カネでさえさまざまな汚れたルートを介在する。つまり、カネの清廉など、幻想であ
り、どこにもないのである。

宗教は募金を浄財などと呼ぶべきではない。カネはカネ。それ以上でも以下でもな
い。
宗教の最後のよりどころは、宗教そのものが、汚れたカネも貪欲にむさぼる物体であ
るという認識である。つまり宗教にはいかなる清廉も実在し得ないのである。

われわれが宗教と呼ぶものに、清廉さを求めるのは幻想にすぎない。人間の社会も人
間も汚れた生物であるようにカネも汚れた生物でありそれを求める宗教も同じく汚れ
た生物である。
ならば宗教とはいったい、いかなるステータスをもつべきものであるのか。
ここに、21世紀の宗教の脱皮の本質がある。神が、天から降りてくる道が、ここに
あるのではないだろうか。神はカネのように浄財であった時代、それが20世紀で
あったのだろう。