M_SHIRAISHI <eurms@apionet.or.jp> wrote in message news:<3F22C1ED.714B93C8@apionet.or.jp>...
> Kaz wrote:
> 
> > そもそもそのような仏教渡来文化は臨海部からでないと入ってきません。
> > であるからして摂津がその玄関口なのです。
> 
> 
> しかし、その当時、摂津には、糞餓鬼Kas(粕)の掘っ立て小屋しか無かった
> ので、「素通り」されたのでありますた。 (爆笑

この無教養なバカのシライシは、室町時代から戦国時代あたりの中世のころ、
淀川河口付近が沖積により水深が浅くなり、港としての機能に
弊害が出て、商業交易港町としての尼崎が寂れ、現在の大阪湾の港町としての地位を
泉州の堺に取って代わられた時代、歌舞伎の『尼崎閑居・・・』に出てきるような、
明智光秀が尼崎の閑居に隠れ思案したような家屋のことを言っているのでしょうが、
そのような閑居があったのはその中世の時代に人々が尼崎を去り、寂れた一時期だけ。
戦国の世がおわり、江戸時代が始まると堺は大阪に取って代わられ、
尼崎は尼崎藩城下町として復活し、堺もまったく違った刃物工業の町として
生まれ変わってます。

言うまでもなく、その時代の尼崎は立派な商業物流金融の町です。
ちなみに、Masakoちゃんが自慢する京都の有名な寺院はたいがい尼崎番匠と呼ばれる
建築士により建てられてます。それらの『大物の寺院』の材木も尼崎から供給されてます。
それらの材木を供給した名残として尼崎には『大物』の地名が残ってます。

このような歴史事実は近代、尼崎に敵意を持つ薩長神戸兵庫県や、大阪船場など、
関西を牛耳る連中によってもみ消されているので、そんな関西の下っ端の京都のMasakoちゃんは知らないのでしょうね。w

大阪船場のあくどさもひときわです。東洋のマンチェスターなどとして紡績産業が
発達し他の歯尼崎であり、大阪ではありません。そのような繊維産業は尼崎藩が
灘目を幕府に没収され、資金難に陥っているところに綿花栽培を思いつき、幕末まで
尼崎藩の産物であった綿花を利用し、明治になって近代工業として、明治維新により
失業した藩士が作り上げたものです。
http://www.unitika.co.jp/business/history/home.htm
大阪でも西淀川区・此花区などの尼崎側に建つ
地域にその紡績工業からその他鉄鋼などの近代工業へと進化して行ったのです。
大阪船場は、ただその繊維を取引していただけの他人のふんどしで飯を食っている
連中なのです。

あまりこのバカシライシの相手はしないように。よほどその由緒正しい
尼崎にコンプレックスを持つ下賎民です。

ちなみに、このバカシライシ、fj.jokesにまたしてもクロスポストしてますが、
とりあえず、そのままにしておきます。