今迄司法に関しては専門職で、我々には余り関係が無いと考え、専門家に任せれば良いと考える事が多く、常に意見を聞き、多少自分の感覚とは異なっていても敢えて自らの意見を言う事は無かった。 むしろ意見陳述の機会には恵まれない場合が多かった。
 民事と刑事とでは基本的に性格は異なるが、少なくとも素人には理解し難い結論に至る場合も経験した。
 今回、山口県で起きた母子殺害事件が広島高裁に差し戻されたが、この事件を地裁の段階から見ている者としては、決して被害者の夫が黙って判決に従えば良いとは思わない。
 勤務先に恵まれていた事も一助にはなっているとは思うが、彼は物事を冷静に判断する姿勢を失っていないし、この八年間どれだけの勉強をしたのだろうかと驚かされる程理に叶った発言をしている。
 一方、加害者の元少年は、被害者に謝罪の手紙と900円の見舞い金を送付した直後に、友人に対して少年だから死刑にならない事を含め、当時の状況をあたかも誇らしげな文章を送付している。

 そして今回の裁判が、20名の死刑廃止論者による弁護団で形成されている。 必ずしも弁護人の多少に判決が左右されるとは思わないが、自らの主義主張を述べる場に化している事は、被害者に対して大いなる冒涜であり、専門馬鹿の恥さらしの為に無駄な経費と時間を浪費するばかりか、被害者の家族(この場合主として夫)の人生設計を大きく狂わしたばかりか、今後の目途さえつかない期間を長引かせている。
 加害者の人権保護も確かに無視されるべきでは無いが、被害者の名誉、家族の人権は放置されてもよいのだろうか?
 
 素人では理解出来ないとして全てが片つけられれば、社会人の持つ正義に対する感覚は大きく歪められる。
 司法の場に居る者も社会の構成員の一員として、一般人の持つ感覚から逸脱して欲しくない。 黒を白と主張して法の隙間や、都合の良い条文を引き出して主張するのが弁護士(一部だろうが)とすれば、公の利益や秩序を誰が守り公平に判断するのだろうか?
 正義は一つ、真実は一つしかないと言われるが、その一つの正義と真実は一般社会人の方が遥かに感覚的にも鋭い面が存在すると思う。

 普通の人が何処か間違っていると感じれば、必ず何処かに誤りが存在する。 法の専門家はその理由が何処に有るかを判断し助言すれば良い。
 
 制度の運用により結果は異なるかも知れないが、少なくとも社会常識から逸脱した論争は法廷の場ではなくなると思う。
 素人には何も出来ないと考えるとしたら、既にその社会は死んでいる。 もっと何かが出来ると考える方向に向かいたいものだ。