誰かが始める前から教育改革の批判をしているが、戦後の教育改革と称するものは概ね改悪に至っている。
 主たる元凶は日教組と旧社会党と、サラリ−マン化した教師にある。
 ゆとり教育とか教育の均等化などと訳の分からぬ理論を振り回した結果にある。

 我々の世代の就職先で最も能力の無い者の仕事先が教員であった。この時代はかなり長い期間続いたと思う。
 仕事の役に立たないから子守でもしておけ! と教育学部卒業生でさえ平気で言っていた期間がある。
 命令待ちの、自己啓発が出来ない者に我が子を託す馬鹿はいない。
 その結果、親の足元を見透かした塾が全盛期を向かえ、教育ポリシ−の明確な私学が人気を呼ぶ。

 教師になられた方には目標と信念を持ってなられた方も多い事は承知しているが、所謂中堅以上の世代でノンポリ学生だった者にまともな教育が出来るとは思えない。
 教育の原点は志を教える事にあり、最も適正な教師は家庭である。
 学校はそれを補完する機関に過ぎない。
 逆に言えば志を持たない子供が、何を学ぶのだろうか? 押付けられたカリキュラムを無為に消化しても、只無駄な時間を浪費して、目的を持たず社会に押し出されるだけである。
 志とは子供の夢とも言える。その夢を育て叶う方向に誘導するのが教育とも言える。 


 所謂教育の機会均等は、解釈が間違っている人が多いと思う。
 憲法や児童憲章、教育基本法に言う教育を受ける権利とは、能力に応じて受ける権利が生じるものであって、年齢と共にその権利が常に等しい訳では無い。目的に向かって努力しなければ権利放棄している事を知らしめるべきである。

 「教育の悲劇」の元凶は家庭にあり、総てが学校や教育機関にある訳では無い。
 学校を最初に選択するのは親であり、後には家計の貧困、裕福に係わりなく子供の能力に拠って奨学金制度も充実している。

 不思議な事に組合活動に熱心で指導的な立場にいた教師程、子供の特性を生かして指導しており、所謂出来る子供が巣立っている。
 その意味では、単に日教組が悪いとは言えないが、多くの組合員だった教師は社会性すら欠片も残っていない。

 現状を諒としないので有れば、先ず何から始めれば良いか考える場があって然るべきだろう。少なくとも現状拠りは悪くはならないだろう。
 偏差値が50未満でも行ける大学があり、卒論さえ必要としない所がある時代になり、学校法人が倒産する時代になった現在、教育制度そのもののあり方から考える必要は感じる。子供を学校任せにしている親には理解出来ないかも知れないが。