南京大虐殺や、べトナムの村の大虐殺や、広島長崎東京大空襲の大虐殺の信憑
性は、われわれがもっとも良くわかるのは3番目。伝聞であってもフッサール
哲学流にいえば、その「確からしさ」が物理的な距離感からいっても高い。何
が真理なのか、疑わしさがいかなる真理にも残るがこの疑わしさの度合いが真
理の確度に反映される。
フッサール哲学からすれば、最も確かなことは、酒を飲んで美味いと思えばそ
の自分のああ美味いという実感こそがもっとも疑いようのない確からしさとい
うことですね。そこで、認識にあたり、なるだけ、憶測を取り除いていくこと
で真理の確度をあげていくという「還元」なる概念が登場する。

このニュースグループが、写真などを提示し、憶測らしきものを取り除くのに
役立っているのはわかりますが、はたして、その憶測がどれだけ確度のある本
物の憶測なのかは、またここに疑わしさが残る。
べつに、そのような写真掲載のこれを見よの方法を否定するつもりはないが、
このような方法が認識の確度を高める還元だと信じるのは早計だろう。逆の写
真もまた埋もれている可能性は高い。

私はまず、歴史的認識の不確かさをいうにあたり、過去の問題より、現実の身
近な時空の問題で見たほうが、不確かさを認識する上で意味があると思うね。

イラク戦争だよ。この立場が、国により、さらに同じ国でも民衆によりさま
ざまに分かれている。「大量破壊兵器を持つテロ支援国への戦いだ」、「国連
など当てにならん」、「米国を支持する」といって小泉首相は、大量破壊兵器
なるものを持ってると憶測するイラクたたきを賛成した。
だが、このような先制攻撃戦争に反対する意見もあった。「大量破壊兵器は憶
測」、「オイル欲しいための戦争ならオイルは買え」という意見も世界には
あった。
そして、もはや大量破壊兵器は、なかったという点に落ち着いている。
小泉首相も米国大統領も釈明はしない。イラク戦争について、わが国の首相ら
の認識は、うやむやのまま風化させられてしまったようだ。マスコミも追求し
ない。およそ、歴史とは、現代のこのような情報過多の時代においてさえ、正
しい情報がなかなかもたらされず、情報合戦とだまし、憶測で、大衆はつんぼ
桟敷におかれる。フッサール流の現象学によれば、ますます、憶測がかさみ、
還元はむずかしい。

では、われわれは、どうすればよいのか。
立ち返るところは、りんごを食って「美味い」と実感するわれわれの実感であ
る。いかなる事実からも、価値は演繹できない。人を殺したという事実から、
殺し返してよいという価値は演繹できず、さりとて、敵討ちはいけないという
価値も論理的には演繹できない。それにもかかわらずわれわれ大衆の思考は、
事実から価値が演繹できるものと無意識のうちに反応する。民主主義のアジ
テーゼの毒性は実はここにあるのだ。小泉首相のイラク攻撃賛成という、「9
.11の事実から攻撃すべきという価値」への演繹、「大量破壊兵器があるだ
ろうという価値から戦争支援行為参加という事実」への演繹を前提とした、派
兵の論理など、正しい、間違っているというような論理の整合性の問題でなど
はじめっからないのである。
大衆はこのところが見えない。はたして、何%のひとが、ブッシュや小泉首相
の戦争理由を、「価値と事実」の問題として聞き分けていただろうか。

学校ではこのような認識の裏舞台は決して教えない。むしろ、このような裏舞
台は目隠ししたまま、特定の価値を「厳然たる絶対的価値」とでもいうように
教える。右も左もね。こうして、子供たちは真実探求の目を失い、アジテーゼ
に無抵抗な視覚と聴覚になっていく。この一連の事実関連は、いわば、事実的
相関性を持つという意味で「論理」だね。ここを蹴飛ばせばあそこが出っ張る
というような「論理」だね。それを食い止めるにはここを押せばここが引っ込
むというのも「論理」だ。本当に引っ込むかどうかは現実に検証されなければ
わからない。それで検証されたら「理論」だね。

単なる、「価値から価値」への無限のリレーションシップやカーディナリティ
など、いくらでも書ける。このニュースグループにかぎらず、リレーション
シップやカーディナリティを論理と錯覚している犠牲者は多いね。大衆はまず
そうだ。彼らはもっともフッサールの現象学を理解できないタイプだね。

別に、価値を主張することは当然だが、これがりんごの美味さだという自分の
実感を省みず、そのような実感から遊離した価値をいくら主張しても、どんな
に伝聞の憶測を掲載しても、それは、およそ真理からは程遠いだろうね。
では、われわれの実感する価値とはなんなのか。実は、ここが現代の戦争を経
験していない人間には空白地帯なんだよ。同じ自民党の政治家でも、小泉と宮
沢や後藤田正晴とは違う。戦場で戦った戦士になればさらに違う。小泉にはこ
の実感がない。ここがおそろしいところだ。anko君にも切実な被災体験は
ない。谷村君にもない。伝聞の憶測情報さえ希薄な環境で育ったらしい池田君
なども典型だね。歴史がこのようなフッサール現象学でいうところのドクサ
(臆見)にまみれた認識で進められるのはきわめて真理から遊離しやすいね。

このニュースグループで、価値から価値への演繹誤謬など語られるより、実感
に基づいた価値が語られるならそのほうがはるかに意義がある。ましてや、論
理なら、事実関係の仮説だから、事実関係の予想や、人が感じる価値に対して
意見交換もできる。論理を現実に投影して検証することにより、論理の進化も
図ることができる。発展性はいろいろあるわけですね。

事実関係の仮説の分析は、人それぞれの発想がありうる。人にやってくれとい
う前に、自分でイマジネーションをかき立てて参加提案することも可能だろ
う。それができないようでは、議論に参加する能力はないのです。説明責任は
価値の問題であり、何もはなから理解する能力がない人にまで懇切丁寧に説明
する必要もないという考えもありうる。参加提案できるものが参加すればよ
い、という考えが当然あるわけです。もし、聞きたいのであればそのようにお
願いすればよいですね。

このような事実と価値の考察には目をふさぎ、民主主義が「事実から価値の捏
造」や「価値から価値の捏造」により、無知の大衆の盲目の目と耳をレイプす
るなら、これはもう、恐るべき政治的地獄絵に向かうでしょうね。
事実と価値を検証し、現実問題を解決するあらたなる論理を生み出し、また、
論理を検証していく能力は、有史以来の人類のもっとも未発達な、それでいて
もっとも大切な点のひとつだと思いますね。