仰せのとおり、矛盾して居るように、見える。
 しかし、その民族パラサイト構造を考えると、当然のことである。
 ご指摘のように、日本国の政治家には、成り済ましが多い。
 それこそ、その国論を二分するかの如き、偽党の偽闘、際限なく。
 そもそも、その「靖国」は、似非右翼の朝鮮ヤクザの演出。
 それこそ、戦後レジームの便乗戦勝洗脳植民地支配の一環。
 されば、その不和煽動も、自由の原則で。
 そして、その上映中止も、自由の原則で。
 その歴史、百年の河清を、待つべし。

"村上新八" <shinpa@cronos.ocn.ne.jp> wrote in message 
news:ft3i1n$h1b$1@news-est.ocn.ad.jp...
>  日本は言論自由の国であるからこそチベット人のデモに対して、武力での中国の弾圧を批判する資格があるのだ。
>  ところが、在日19年の中国籍映画監督の制作した映画「靖国」の上映を妨げる、というような言論の自由を妨害する行為は、チベット弾圧に対する言論の自由発言に矛盾する行為であり、断乎として反対する。
>  この映画が公開上映されるということは、「映倫」の承認があったということで、それなら公開して差し支えないはずである。
>  国会議員対象に行なわれた試写会以来、上映中止の動きが広まったときく、試写を見た国会議員の何人かが、上映予定の映画館に働きかけたためであろう。
>  言論自由の国らしからぬ、事前検閲みたいな胡散臭さがあって、不愉快極まる。
>  「靖国」には国論は二分している。それを両面から、描きだしているルポルタ−ジュなのであろう。それは改めて日本人の良識に靖国に対する判断を問いかけることになるのであろう。それが言論自由の国としての在り方ではないか。
>  村上新八