「共謀罪」について、一日本人の疑問と不安を聞いて下さい。



 「共謀」と「討論」「議論」「会議」「打ち合わせ」「合議」「通知」とはどのような関係になるのでしょう。

 「反対意見の表現」は許されないのでしょうか。それとも、「権力への反対意見の表現」が許されないのでしょうか。

 「忠言」「進言」「意見具申」は許されなくなるのでしょうか。「忠言」と「批判」をどのように判別するのでしょうか。

 家族の中での意見の対立は認められないのでしょうか。同じ政党の中で意見の対立は認められないのでしょうか。国会はいずれ無視され、廃止されるものなのでしょうか。



 「犯罪未遂」は存在するでしょう。しかし、「未遂の犯罪」は法的規制対象として存在を許されるのでしょうか。誰が未遂の犯罪であると判定するのでしょうか。どこまで未遂の犯罪として遡及されるのでしょうか。その判定者が大多数の国民の信頼を受けている賢者であるならば、国民は納得するかもしれません。しかし、現実には「大多数の国民の利益」を基準にして判断するよりも、官憲は「法」あるいはそれ以上に、所属組織の意向と自己防衛を根底において判断するでしょう。さらに、現実には、質の悪い権力代行者が皆無とは全く考えられません。



「犯罪を未然に防ぐ」「攻撃は最大の防御」・・・美しい表現ですね。これは犯罪予想者の排除により達成されるべきものなのでしょうか。それとも、犯罪を犯す必要性の少ない社会を構築することにより達成されるべきものなのでしょうか。



 犯罪には多くの種類が考えられます。例えば、私には「反道徳的犯罪」「反社会的犯罪」「政治的犯罪(反権力的犯罪)」などが思い浮かびます。そして、私には次のように考えられるのですが、いかがでしょうか。



1 特に貧困な人々(表通りの明るい社会から落ちこぼれた人々)を抽出し、迎え入れ、再生させる暖かい社会の構築により、「反道徳的犯罪」「反社会的犯罪」を大幅に低減させることができるのではないでしょうか。



2 一方、権力者自身が暖かい権力者になれば、すなわち、既存組織や少数の既得権益の保護、あるいは自己防衛ではなく、主権者たる国民の大多数の最大利益を全ての判断の根拠とする権力者(権力を国民から委託された人)になれば、「政治的犯罪(反権力的犯罪)」を大幅に低減できるのではないでしょうか。



 要するに、「犯罪を未然に防ぐ」方法は、事前に犯罪者を摘発することよりも、犯罪者が生まれる必要性の少ない社会を構築することの方が圧倒的に効果的な方法であると私は信じます。

 反対意見や反対会議を「力」で「事前に」押さえ込むことは民主主義を根本的に否定することになります。民主主義がやりにくいならば、専制主義に移行したらどうでしょうか。インターネットが普及した現在では、強圧的政治は破綻するでしょう。あるいは、能力のある人や正義感の強い人は、そのような社会から脱出するでしょう。