「想定外」という言葉は、「カネさえあれば何でもできる」と豪語したホリエモンが昨年フジテレビの乗っ取りを企て、そのとき、いくつかの対抗奇策をフジ側がとった際に、ホリエモンが「想定内」「想定内」の言葉を繰り返したことに端を発している。しかし、その乗っ取り事件は失敗に終わったのだから、儲けたのはユダヤの金融資本だけで、ホリエモンにとっては、その結果は「想定外」となったのである。
 当時、日本では「そのような奇襲攻撃による「会社乗っ取り」は想定していなかったから、乗っ取り防衛の法律も不備であった。
 このような想定外事件は多発した。
 小学生の女の子が同級生の女の子を刺し殺すとか、母親が自分の子に食物を与えず餓死させるとか、IT絡みの「振り込め詐欺」、サイトを開くだけで、インタ−ネットバンキングのIDや銀行口座番号、暗証番号が一挙に盗られ、大金が自分の口座から消えてしまう「スパイウェア」、一級建築士が100件近くのマンションやホテルの耐震強度を基準の半分以下にまで偽装して、建築し、それを知っていなから販売する業者がいたり、学習塾の先生が自分を嫌っている女の子の生徒を刺し殺したり、政治面では、芝居かかった刺客選挙で自民党の議席の2/3以上を与えてしまった昨年夏の衆院選挙など、想定外のことばかりであった。
 「想定内」とか「想定外」とかの判断は、すべて経験から決めているものである。経験からして、人間としての最低の善意やモラルを信じて「そんなことは在りえない」と思っていたことが発生するのが「想定外」だ。
 だから「想定外」の事件が多発するというのは、世の中が変ってしまって、人間としての善意が消失し、それに基づく経験が役に立たなくなったことを意味するものである。それも良い方向での想定外ではなく、極めて悪い方向の想定外事件が多発する世の中は、まさに末期化兆候だと言っても過言ではあるまい。
 村上新八