そうだとすれば、
ヤスクニ神社信仰から逃れるためには、必ずしも複雑な論理を必要としない。
一言でいえば、人の死を悲しむこと。
それだけで 十分なのだ。
家族の死を、愛する人の死を、最も自然な感情にしたがって悲しむこと。
ヤスクニにとって、最も怖れるのは、ごく自然な形の 人間性に ほかならない。

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私は神道国学者で、殆どが其の専門的な用語になります。そこで・・・・
貴方様の表現を引用させて頂きます、

指摘の文書は、祖の弟子であった藤井徳佐衛門が神道国学より分離した「やくざ戸乙」の辞気であります。

即ち、「やくざ」は、人々が深く気付かない神道易学の社会心理学を巧みに用いる辞気であります。

その手法を一般的に表現すると、貴方様の編纂文書になります。即ち・・・
一般人では貴方様の指摘に気付かないのです。
一般人が気付くのは、人々の死の悲しさです。その感情を巧みに利用する為に招魂社を靖国神社に、巧みに神々の名を改竄したのです。

            神道国学者