Fumimaro wrote:
> (2)弁証法
> 弁証法は、ヘーゲルやマルクスの専売特許ではない。中国の老荘思想も対立物
> の相互転換を基本的な真理探究の思考方法として採用している。ただ、ヘーゲ
> ルとマルクスと老荘思想では見た目の異質感があるのは、ヘーゲルは思惟過程
> が外的現象をなすとし、マルクスは「理念的なるものは人間の頭脳に転移し翻
> 訳された物質的なものに他ならない」とするトリガーの所在にある。老荘思想
> においては自然をトリガーとし、自然の中に発見した法則をもって人間行為、
> 畢竟、人生、社会現象という外的現象の運動を規程できるという点で、ヘーゲ
> ルの絶対精神に対峙する面がある。が、ヘーゲルのごとき進化する世界という
> 概念のない点で自由であり自然である。また、マルクスのごとき数量化したメ
> モリで労働価値を規程するような手法はおよそ東洋の老荘思想の弁証法には無
> 縁である。
> 
> 私がここで用いる真理探究の方法は、弁証法を想定してはいるが、絶対精神に
> 向かうという肯定的予断はない。また、労働価値を数量化することで商品の交
> 換価値を規程できるとする立場を盲目的に上塗りするつもりもない。白紙であ
> る。労働価値が市場に規程され、市場は労働価値を規程するとしたマルクスに
> たいして「循環論法」として非難した1930年代の学説を踏襲するつもりもな
> い。この循環論法が当時のヨーロッパからマルクスを失墜させた科学的原因で
> あることは歴史の示すところであるが、現代においては森嶋通夫さんにより
> 「スパイラル」の論理でマルクスの「循環論法」が解決されたとする説をここ
> で先生がたに勉強させていただければ、願ってもない幸運です。
> 
> ここで目的とする方向は、マルクスの資本論による抽象概念、たとえば商品、
> 交換価値など、抽象化の細胞の現代における再吟味をはじめとして、今日の目
> で抽象化される細胞を再度洗い直し、労働価値説という一つの抽象化さえ予断
> なき白紙の目で弁証し、さらに抽象化の方向を広げていくことである。
> あえてマルクスの弁証法との共通点を言わせていただくとすれば、自然法則か
> らの出発でも、絶対精神の手の上での出発と帰結でもなく、現実の事象を出発
> 点として弁証することである。その結果、何処へ向かうのか予断はない。
> 
> マルクスは言っている「弁証法は、ブルジョア階級とその杓子定規的代弁者に
> とっては腹立たしく恐ろしいものである。なぜなら、現存しているものの肯定
> 的理解の中に、同時に否定的な理解をも含む、つまり、必然的な没落をも含む
> ものであり、生成された運動形態の流れを、経過的に理解するものであるから
> だ。」
> 
> ただ教条的に現在の資本主義社会をあるいは現在の自称共産主義社会を固定的
> な最終的城と認識し、人民の命を奪い去ってでも、地球を滅ぼしてでも、この
> 体制城という頂天を死守するという固定観念は、およそ学問の真理追究の道で
> はない。
> 弁証法を否定するものは、すでに、弁証法的には必然的没落を下降しているも
> のと言える。

難しすぎる。勿論、それは人によって異なる。だからこそ、この投稿に限定され
ず、「どういう考え方」をしたからこうなる、というところを、論ずる以上に
「解説」することがなくてはならないように思うのだがいかがかな?

わたくしは思うのですが、簡略な記述で高度な話をしている投稿が在って、それ
をすんなり理解し分かった風なフォローをつける習慣がこのfj にはある。しか
しよく見ると「分かってはいない」。

これを考えたときには一点の項目を言う場合にも周到な「解説」は必要だと考え
ます。このことについても如何かな?