なんか、思ったとおりの回答が帰ってきて面白かったです。
 わたしは一個人の力など政府に比べたら取るに足らないほど小さい、と考えていま
す(だからこそ集まって、塵を積もらせて山にしなければ価値がないと思っていま
す)。
 個人は(国家や政府に対しては)小さく弱いもの。それがわたしの前提です。

> だから、それは免罪符にはならないでしょう。

 そうではないと思います。
 たとえば「戦争へ突入する」という流れを作るにしても、世論の形成が必要です。
しかし当時の民衆に、世論を作って政府を戦争に押し込めるだけの権限があったかど
うかわたしは疑問です。当時の民衆の権限をかんがみればわかると思いますが。普通
選挙が実施されていようと、主権在民だったかどうかはあやしい。マスコミも、政府
を糾弾する側にいたかどうかあやしい。
 現在でも行われている「票の取りまとめ」がもっとおおっぴらに行われていたん
じゃないですか。
 マスコミは、イランみたいな方法で締め上げられていたんじゃないですか。

 一部の「戦争を始めたほうが都合のいい人たち」がいて(不思議なことにそういう
人たちは政府筋に近かったりお金持ちだったりするパターンが散見されますが)、そ
ういう人たちがマスコミを用いて世論を形成し、それに民衆は流されたと見るほうが
自然です。植民地の愚民化政策が最たるものですね。
 人は簡単に流されます。イラク日本人人質バッシングを見ていてもよくわかりま
す。
 彼らが犯した罪は「自分の頭で状況を考えなかったこと。流れの中で立ち止まって
振り返らなかったこと」それだけです。

 で、その責任は「敗戦」や、命以外のもの、あるいは命そのものを失う形で負いま
した。
 これで民衆は十分責任を負っています。免罪符なんかどこにもありません。

 責任ある立場の人たちの「民衆が望んだからやったんだ」なんていうのこそ免罪符
にならないはずです。彼らこそ、流れを作る人たち(その気になれば流れを変えられ
る立場にいる人たち)なのだから。
 そのための責任ヒエラルキーがある。より重い立場にいる指揮した人たちは、一般
市民より情報を多く知る立場にいたのだから、戦略的にものを考えられたはず。いつ
でもやめられた、引き返せたはずです。にも関わらず「世論」を免罪符にしてやめな
かった。
 だから世論のほうが悪い。そう読めるのですが。

 そういうわけで、貴投稿の「たとえばまたぞろ」以下の文章は、「レベル論とは違
う責任の取り方」のご説明ではない気がいたします。
 違う責任とはなんなのか、あらためてお教えを請いたいと思います。

 免罪符と言うよりも、わたしは「また60年前の日本のようになりたいのか?」と
重い問いかけを突きつけられている、と受け止めています。
 文句は、現在は選挙権を用いてイエスノーでいえますね。当時ははて?

 わたしはそういう意味でも、やはりレベル論で「戦争指導者たちの責任は、民衆よ
りも重い」です。

 ところで前の記事の「純粋」とはどこから出てきたのですか。
 GON氏が具体的に「一般市民にはなんら責任はなく」と明確に書いた記事はどこで
すか。
 GON氏の記事の内容は別に「日本が戦争を」などとは書いていないようですが。
 むしろ論旨は「日本はなめられる立場だからしょうがない」と読めるのですが。

 愚民ならそれでいいんじゃないですか。ひとりがばさばさ決めていくシステムより
も、だめな人たちが集まって、時間をかけても「みんなが気持ちよく過ごすための
ルールは?」と話し合っていくほうがずっといいです。何をもって「愚民」と定義づ
けているのかよくわかりませんが。


"yam" <h_yam@h8.dion.ne.jp> wrote in message
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