フリストテレスは師プラトンの「イデア」を批判して、予め感覚の中に存在しないものは意識の中にも存在しない。イデアが感覚的事物から離れて客観的に実在していることは何も証明されていない。イデアとしてのものと経験的なものとは同一の内容であって、それは同義語反復に過ぎない、と反駁している。これは、すぐれて経験的、現実的な思惟である。
 哲学は不変で必然的なものだけでなく、普通に起こることを扱うものと考え、現実は「形相」と「資料」が一体となって個々のものが出来ていると説いた。すなわち「資料(デュミナス)」「形相(エネルゲイア)」「運動因」「目的」の四つの原理からなるもので、運動因が働いて合目的な事物が生成される。
 これらすべての運動の起因は、それ自体は動かない「第一起動者」すなわち「神」であり、それは質量を持たないから不変不動で、自然から離れたものである。
 地上の自然の目的は及び中心は男性であり、女子は不完全な男性で、女子の出生は自然の出来損ないである。自然というものは無意識の衝動によって働くからこのようなことも起こるのである。
 人間の理性は二つあって、そのうち「受動的理性」は有限で一時的で、個人に属し、個人と生死を共にするが、いまひとつの「能動的理性」は永遠で肉体から分離する「神の理性」と同一のものである。
 奴隷制度は、無能力な人々がいることによるものであり、それは市民に閑雅を提供し、公共事業にその個人的役割を果たさせる上で必要なものである。
 
 このように、アリストテレスの、論理学の法則を固守し、経験的事実に密着し、観察や実験によって確証した実証的結果を重視するという、現実的、経験的な哲学展開は、当時の制度であった奴隷制度や女性差別を是認する考え方と同一線上にあるものと考える。
 その反面で、「第一起動者」として「神」を持ち出したり、不滅の魂として能動的理性を説いたり、哲学の観念論化傾向を促進したのである。
 しかし、アリストテレスは、よろずやかつ分類魔で、哲学のみならず、論理学、数学、自然学、制作術、倫理学、経済学、政治学など後世の専門科学への道筋を開いた功績は大きい。
 村上新八