ドラマを見ていて、「あの登場人物と同じ意図を持ったら、自分なら違う行動
をとる」と思うときがしばしばある。
と同時に、「自分はその登場人物とは違う環境で育ったのだから行動が違って
当然」ということも理解できる。
これは、フィクションの場合だけでなく、ドキュメンタリーや報道のときも同
様である。

これは、「意図と行動のつながり方が人によって大きく違う」ということを示
している。


fjの記事を読むことは、登場人物の背景をほとんど知らずにその行動だけを見
ることに似ている。
何故、そんなことをしている(書いている)かが推測できることもあるが、所詮
推測に過ぎない。
その人物の価値観がどの程度自分に似ているかの情報は少なく、推測が大きく
外れているかもしれない。
それは、知能の問題ではなく、その人物に対する個人的な知識の多寡の問題で
ある。


では、fjの記事をどのように読めばいいのだろう?

fjで古くから言われているのは、

・行間を読むな。

ということである。
表現されていることを表現されている通りに読みとって、その意図を断定しな
いように読もうということである。
意図の推測は、所詮、「自分ならこうする」というものの反映に過ぎない。
そんな不確かなものに頼っては、まともな議論ができない。


では、fjの記事をどのように書けばいいのだろう?

上記の裏返しで、

・行間に頼るな。

というのが一つの指針となる。
伝えるべきことは全て表現する。表現されてないことは伝わらないものとして
書く。
「あとは推して知るべし」なんて言ってる場合ではないのだ。


そこで、伝えるべきことを過不足なく、正確に、誤読の可能性を避けて表現す
る技法が必要になる。
その効用を充分に意識するところから、「表現主義」は始まる。
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KG  KGK (life name: Keiji KOSAKA), Dept. of Phys., Okayama Univ.        K
KG kgk@film.rlss.okayama-u.ac.jp http://film.rlss.okayama-u.ac.jp/~kgk/ K
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