古寺です。

ABE Keisuke さんwrote:

> In article <d9brtt$2s2e$1@nwall1.odn.ne.jp>,
>  Masahiko_KODERA <kodera_m@cool.odn.ne.jp> wrote:

> 葛飾の改称は、公式的には「東京都葛飾区」にあるとの
> 誤解(誤乗)を防止するためだったと聞いていました。

ああ、そういえばそんな話も...時期的に北総線が高砂に来
る頃に改称話でしたっけか?

> という問題があって、船橋乗り換えより感覚としては
> 遠い感じを受けます。

いやもう、間違いなく遠いですね(^^;

> 「西船」というのは、京成西船駅付近の地名だそうです。

えー、その辺、駅と地名の前後関係はどうなんでしょう?
東西線開通の頃、転勤中だったウチの親達も周囲も、一躍脚光
を浴びた西船橋をやたら「にしふな」と略すようになってまし
たが...

#木下街道を木下まで行っていたバスが、東中山か西船橋に
#入っていたので、それ以前の縁も有ったやも。

>>まださほどでもなく、「親」に直結した津田沼口が明確に「上
>>り」方向だったのに国鉄に流出して行くのだから、ここもイン
>>パクトが有りましたね。
> 
> 
> 雨の日などは、総武線の電車から見ていて大変そうだなと
> 感じます。京成が津田沼始発の上り優等を出すなら、
> 多少は流れが変わるのかもしれませんけど、そこまでして

そういえば色々書いてるうちに書き漏らしましたが、自分の
縁があった新津田沼〜大仏が複線の時代、大仏折り返しの他、
ラッシュ時の新津田沼発着(単線容量により津田沼に入れない)
が有った記憶です。長編成化で条件が違いますが、今は...?

> 収益に結びつくかどうかは分かりません。千葉方面は、
> 2006年に昼間に新京成・京成千葉線の直通運転が始まると
> 発表されています。

見た所、有名な車両の搬出入が無いとバラストで埋めておく連
絡線が、顔を出したままになっていました。その時は、この
工事関連かとも思ったのですが、千葉線上りとのルートとか、
結構いじる必要が有りそうだし... 出たばかりの雑誌にN800形
の記事が有り(新1000形と同じノリだと思いませんが、Nで800
って...1字違いのアレを狙ってるんじゃないのか?^^;)。


>>今はその辺奇麗に整理された感じですし、複線区間も総武線
>>跨線橋はいじらないまでも、閉塞を短くするために少し延ば
>>した感じですね(mapfanの1/1562図)。

> もともと複線用の土地は確保されていて、物理的には敷ける
> らしいという話を聞いたことがあります。

純電気ブレーキ使用前くらいに乗った記憶ですが、総武線を
またぐガーダーが単線構造のままで、その先津田沼まで掘り
割りが介在しませんでしたっけ? その辺、金を掛けてまでな
のかなと。

>>で、最初から新津田沼での国鉄乗り換えをする前提の作りだっ

分岐2ルートとして有ったという事は、確実に「連絡線」だろ
うなと。

>>た(後に蛇行したルートで線上にまとめた)ってことのようですね。
> 
> 
> 川島令三「全国鉄道事情大研究 東京東部・千葉篇(2)」には、
> 昭和22年12月から28年10月までは前原から(国鉄津田沼駅前の)
> 新津田沼、36年8月までは国鉄津田沼から離れた場所に
> 新津田沼が移転、43年5月までは前原で分岐、そして現在に
> 至るという旨の図が示されています。
> 
> 国鉄津田沼駅から離して何が悪いと開き直れそうな気も
> しますが、結局元に戻さざるを得ない悲しさが感じ取れ
> ます。

初代の方が真っ直ぐ国鉄駅前に突っ込んでいたようですが、曲げ
た後、現在に至る前にもっと京成の津田沼側に離れていた(で
終端)だったことが有るのですか。2台目=藤崎台→廃駅?らしき
記述が前述コンテンツに有りますので、カーブより前原寄りかと...
いや、新津田沼へのカーブの手前に一度後退して、そこから現
駅の方へ曲げて伸ばして、一番遠かったのからまた近づいたと...
いずれにしろ離した近づけたが分岐ルートの間に生じた事なら、
積極的に新津田沼(乗り換え)を不便にしようとした意図は感じら
れませんね。こっちルートを廃止するなり、減便するなり...
いや、利用が勝っていたならやっぱり無理か(^^;

#能勢の国鉄前だかも、関西に来てみればとっくに跡形も無いのぉ