先日の、少年に対する性的虐待事件の被告であるマイケル・ジョンソン裁判で10の訴因につていすべて無罪の判決が下された。12名の陪審員の一致である。
 この判決に対して意外感はない。無罪だとの心象が大きいからではない。米国の陪審員裁判では、弁護士の法廷戦術の如何によって社会的正義が覆されることがままあったからである。
 かっての妻殺しのO J シンプソン事件でも無罪であったし、日本人の高校留学生が射殺された事件でも無罪になった事実があるのだ、この二つの事件は後の民事裁判では、法廷は被告の責任を認めて、シンプソンには40億ドルの損害賠償が命じられ、服部事件でも賠償が認められているのである。このことを見ても、陪審員の判断の不当性が分かるというものである。
 このような問題に関連して思うのだが、アメリカ社会の基本的問題点というのは、三つある。
 その一つは刑事訴訟法の問題である。これには、弁護士の舌先に操られ易い陪審員制度、素人陪審員の判断の誤りがあっても是正の道を閉ざしてしまう、一審無罪判決に対する控訴不可制度、さらに司法取引で刑が減免されること、この三つが含まれる。
 第二は、犯罪を増やし、人の殺傷を容易にする銃砲の所持が憲法で保障されていること。第三は正義よりも詭弁や法廷戦術に秀でて、口先だけで「黒を白と言いくるめるテクニックを重視する」弁護士意識である。
 この三つがアメリカ社会を大きく歪めていることは事実であるが、これを是正することは出来ないであろう。
 村上新八