usageででかい面している馬鹿どもへ
私は、以前以下のような投稿意見をフォローとして投げた。それに対して一番の
馬鹿、次に二番馬鹿というような順番で、自分棚上げの文句を言ってよこした薄
ら馬鹿がいた。私は、幾ら文句を言われようと、次の箇所を詳しく言うことしか不
足分を見ない。今その不足分といえそうなところをやや詳細に述べようと思う。
<kuno@gssm.otsuka.tsukuba.ac.jp> wrote in message
news:ckak1b$2br1@utogw.gssm.otsuka.tsukuba.ac.jp...
> 久野です。
>
> pumpkin-soup@coral.ocn.ne.jpさん:
> > > 「正当性」を定義してみてくれます?
> >
> > 「議論の前提と目的(*)に照らして経験則的に筋が通っていること」
>
> すると議論する2人の人が経て来た経験が同一でない以上、2人にとっ
> ての「正当」が異る場合がありますよね。
私がここに言う「経験則」とは「一般経験則」を意味します。したがいまして
「自分はそんな経験したことがないから云々」は意味を為しません。
例えば、久野さんは現在どれくらいの年齢かは存じ上げませんが、一時
誰もが経験したであろう入試の国語の読解であります。このとき「小説文」
はどういう解釈の仕方をするか、を思い起こして欲しい。Aと言う登場人物
とBと言う登場人物がいて、そこになんか会話があったとしましょう。Aがし
かるべき状況下でこういったことはBにこういう感情を引き起こさせたであ
ろう、というような解釈は所謂経験則からしか導けない。このとき、俺はそ
んな経験はしてないから、は意味を為さないのです。
また、法解釈に例をとると、解釈の方法として、論理解釈や類推解釈、ま
た、反対解釈或いはもちろん解釈などさまざまな解釈の仕方が言われま
すが、それらには底流に、そして共通に「経験則」が働いているのです。ど
う受け取るのがより説得的かがメルクマールになるのですが、「一般経験
則」を肯定せざるを得ないのです。やはり、ここでも、俺はそんな風に思わ
ないから、は成り立ちません。
常に、普通、人はどうかがベースになっているのであってその上での説得
性を読まなければならないのです。
> 「複数の正当」を認めるならそれはそれでいいです 久野
以上から、常に必ず、ということであれば誤りでしょうし、複数の正当を認
めなければならない場合も有る、というのであれば正しいでしょう。しかし、
解釈する者の実践として、よりどちらが説得的であるかは自分の責任で
選択しなければならない場合が出てくる。
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Golden Cross
以上の投稿でやや不足しているのは、以下の部分であるようです。
(抜粋はじめ)
以上から、常に必ず、ということであれば誤りでしょうし、複数の正当を認
めなければならない場合も有る、というのであれば正しいでしょう。しかし、
解釈する者の実践として、よりどちらが説得的であるかは自分の責任で
選択しなければならない場合が出てくる。(抜粋終わり)
(1)「以上から」について。「一般経験則」というものが有って、個人個人が、
自分はそんな危険を経た覚えがないからといって、自分の経験、即ち、個人
の数だけの経験則的規準に合致する限りは全て「正当性」あり、とはならな
いものであることを述べた。
この説明を「以上」として受けて、(抜粋)に当たる意見を述べたものであり
ます。
(2)だから、「複数の正当」を認めることはできない、と原則的にはなる。
(3)しかしながら、この「一般経験則」に照らしても、例えば二つのうちどちら
を正しいと認めるかが決まらない場合がある。特に価値の考量によって優
劣を決するような場合であります。同じく無視しがたい価値を種類・質を違
えてそれぞれがもつような場合は一層難しい判断となる。
ここにおいて、この「一般経験則」においても両者の主張を「正当だ」として
認めざるを得ない場合が出てくる。自分は、此れが起こるのは一般経験則
がやはり「一般」であるに過ぎなく、その意味で抽象性をどうしても含むゆえ
の結果ではなかろうかと疑っているのではあるが、このことを認めざるを得
ない場合というものがどうしても出てくる。もちろん最初から、個人の数だけ
経験則がありそれを規準にするというのよりは数が少ないことは確かであ
ろうが。
そして、此れは既に常識に部類に属するのではないかという考えがあった。
これは、私が高校のとき知ったことなのですが、国語の問題において、「一
般に人はどうか」の規準から考えてどうしても一つに定まらない場合は答え
はどっちでもよいことになるのですか、の質問に対しての答えは、そのとき
はどっちでも良いことになるが、そもそも、その可能性がある場合にはそこ
を問題にするような問は作らない、であったことを今も覚えている。
以上の理解を前提に、<個人の数だけの複数の正当を認める考え>に対
しては、
常に必ず、ということであれば誤りでしょうし、
複数の正当を認めなければならない場合も
有る、というのであれば正しいでしょう。
と答えたのであった。今でもこの表現の一部でさえも変更を見る必要性を感
じない。
(4) しかし、解釈する者の実践として、よりどちらが
説得的であるかは自分の責任で選択しなけれ
ばならない場合が出てくる。
と述べた趣旨は、どうしても一つに決断しなければならない場合があること
に対しての対処法を付け加えたに過ぎない。その良例が「裁判」であります。
「両者に正当性あり」じゃあ、紛争は解決されえない。われわれの社会生活
においても同様なことはありうるであろう。特にそれが、人の生活や人生に
影響を及ぼす場合の第三者的判断者は、真面目になればなるほど、身を
切られる思いがするであろうし、考えれば考えるほどドツボにもはまること
になろう。がしかし、そのようなことを全部背負い込む形で判断が迫られる
こともある、ということを述べたわけです。
どちらも正当なのに何故一方だけが首を切られなければならないのかとか。
しかし、どちらかに決定しなければならない場合は、正当性の問題ではなく、
人の全ての喜びも苦しみも悲しみも背負う形で決定せざるを得ないのであ
る、此れが私の趣旨であります。
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Golden Cross
Fnews-brouse 1.9(20180406) -- by Mizuno, MWE <mwe@ccsf.jp>
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