"Golden Cross" <pumpkin-soup@coral.ocn.ne.jp> wrote in message
news:cijba1$eb$1@news-est.ocn.ad.jp...
>
> "村上新八" <shinpa@cronos.ocn.ne.jp> wrote in message
> news:ciir7i$keu$1@news-est.ocn.ad.jp...
>
> 第一に、あなたは「権利」と意識されるとはどういうことかを考えてみなけ
> ればなりません。権利とは、結局は、「誰かに対して」「誰かが」自己に権
> 利があるあるいはないという形で主張できる利益ないし地位、と観念でき
> るものであります。しかし、何故、「できる」「できない」が問題となるのであ
> りましょうか?それは主観的なものも含めて、主張する者にとってそれが、
> 都合のいいものであったり利益になるものであったりするからに他なりま
> せん。以下、このようなものを<利益>として考えることにいたしましょう。
>
> 例えば、平和に生存する権利(生存権)を取り上げれば、人は一般に、
> 平和に生存していられることそのことに価値を覚え、平和な生存を維持し
> たいと思うわけであります。では、そのような<利益>を脅かすことが可
> 能な立場のものは国家だけかと言えばそんなことはない。私的集団であ
> ったり、もちろん外国政府であったりもする。したがって、個人は、このよ
> うに、平和に生存していたいという<利益>は、本来、如何なる者からも
> 守られたい筈であります。しかし、その中でも国家その他が自国民の
> <利益>を脅かす場合だけを国家は関心をもち、基本的人権とした。
>
> こう見てくると、国家が関心をもち基本的人権と認定されようとされまいと、
> 個人には、守られたい<利益>がその他にもにある、ということになる。
> このことのみに着眼すれば、確かに、あなたの仰るように、「国益」はなに
> も基本的人権と称される<利益>に留まるものではない、ということにも
> なりうるであろう。しかし、国家が自国の国民に対して不侵犯の必要性を
> 感じない程度の<利益>を、言葉を変えて「国益」とすることによって、
> 俄然状況が変わり、守らるべき「国益」に速変わりするというのは極めて
> 奇妙なことではありますまいか。
>
> 第二に、あなたの表現には、基本的人権が国家によって侵されるべきも
> のではない、とする理由を理念的に捉え、やれ、人が生まれながらにも
> つ権利だからとか、普遍性を持つものだとか言うなど、なにか「言葉で」
> 理解しているに過ぎないのではないかと思わざるを得ない部分が多々見
> 受けられる。そうして、結局は、「国益」は基本的人権とは概念(*)が違う
> と言うのみで、では、その「国益」の中身は何かを正面からは終ぞ語ろう
> とはしない。
>
>      (*)概念などというものは使われる場面場面で異なって然る
>        べきものであって、其の場の目的に応じて寧ろ変わら無
>        ければならないものである(概念の相対性)。
>
> せいぜい、
>
> >  これに対して「国益」は国全体として利益になると思われることだから、
> > 国が違えば違うし、同じ国であっても為政者や政体が変われば変わるし、
> > 時代が変われば変わるという極めて政治的なものである。それは基
> > 本的人権のようにも超時代的なもので はないのである。このような点
> > で「基本的人権」と「国益」とは基本的に違う概念である。
>
> などとするのみであります。しかし、「為政者や政体が変われば変わる」
> あるいは「時代が変われば変わる」とされる、その中身のことを詳らか
> にはここでも為されてはいない。私に言わしむれば、政体が変われば国
> 家が保障すべき人権の内容や範囲や有無は当然変わる。ゆえに、
> 「国益」も変わる。
>
> あなたは、「標語」あるいは「理念」のみで全てが説明できているとの誤
> 解に陥っているように思えてならない。あなたをとりあえず害しているの
> は「普遍的」「超時代的」と言う言葉であります。この言葉の「意図するもの」
> に着眼せず、しかも、この言葉をのみ基点として人権を考えるからそう
> いうことになる。考えても見たまえ。旧ソ連(今でもか)での表現の自由
> は日本やアメリカと同じ様に尊重されてたのかい?「普遍的」かい?
> 「時代」と「所」を越えてたのかい?
>
> 第三に、あなたは、
>
> >  国家を形作るのは国民であるから、「国益」は「最大多数国民の最大
> > 幸福」を志向するものでなければならない、ということはできる。しかし、
> > 基本的人権はそれを云々する以前に存在する人間としての基本権なの
> > だ。
>
> と述べられていますが、正直言って何を意図されているかは不明。推測
> を交えながら言及しよう。
>
> まず、「云々する以前に…人間としての基本権」と、あなたが言われるま
> まに、人権が「云々する以前に存在する」ものだとしよう。しかし、此処で
> 問われるべきは「以前」に存在するものであろうと無かろうと、その「中身」
> すなわち<利益>の内容ではありますまいか。
>
> さて、あなたが「最大多数国民の最大幸福」をどのようなものとして捉えて
> いるかは不明ですが、私は、前回の投稿から推察されるとおり、個人の幸
> 福追求権という自然権思想を背景にした個人主義的功利主義にのっとっ
> て考えを進めております。この考えでは、個人の幸福追求を阻むものがあ
> るとすれば、それはそれによって脅かされた正に、他方個人の幸福追求
> しかありえないのではないか、とするものであります。したがって、漠然とし
> たしかも比喩的表現である、「最大公約数」と言うような、言葉だけの理解
> をすることはしない。
>
> ベンサムのいう「最大多数の最大幸福」は一部の理解に拠れば、集団主
> 義的功利主義から、個人の幸福追求権は義性にされなければならないと
> するものであって、そうであってみれば、その考え自体が誤りだと言わざ
> るを得ないのであります。
>
> あなたは、憲法の言う「公共の福祉」をどのようなものと理解すべきだとお
> 思いですか?此処では、単なる認識論に留まらない、きわめて実践的な姿
> 勢が問われているのです(法解釈は全てそう)。
>
> そして、それよりも何よりも、このような人権の対岸にあるとされる「国益」
> を、あなたの立場でのしかも、基本的人権との対比上、どのように捉えよ
> うとされているのか、此れが焦点で無ければならないはずです。此れを詳
> 述すべきでは有りますまいか。もう一度思索され、再びご登場されることを
> 心から希望いたします。
>
> なお、基本的人権が生まれながらの権利であること、や、人類普遍の権
> 利である等々「言われている」ことに関しては機会を改めましょう。
>
> --
> Golden Cross