Yoshitaka Ikeda 君、お待たせしました。

Yoshitaka Ikeda 2004年5月24日 wrote (以下省略)
>これは、「重力の影響」による光速の変化の問題は、
>たとえ行路を水平にしようが避けられません。
>地球上でなく、ブラックホールの時空の地平面近くという設定で
>思考実験をすれば簡単にわかると思いますが。
>水平にすることによって「どちらも同じだけ影響がある」
>ゆえに「誤差が出てこない」ことが重要だったりします。

だから、M&Mの実験結果は地球の自転運動との関係を考えることが
重要だ、と何度も言っているのです。君は上記のように
ゴテゴテと喋って、これまでに述べてきた自身の間違いを
正当化しようているのですか。

>時間は時刻の積分だし、時刻は時間を微分したものに過ぎません。
>っていうか、柳氏の文章を読む限りは同じことを書いてあります。

我々が、何処でそんなこと書いていますか。そして、
君の主張のように、時間と時刻の定義をするために、
時間と時刻の概念を使って説明しても定義にならない。

>そのあとの時計に関しての一文は、むしろ逆です。
>時計は時間がたつにつれて動作し、その動作量で過ぎた
>時間がわかる機械に過ぎません。

「時計は時間がたつにつれて動作し」と言えば、
時間概念の先使いであって時間の定義にはなりません。

>つまりある時点を基準として、現在までの時間が
>わかる機械に過ぎません。

「現在までの」と書いているところを見ると、
この「ある時点」とは「過去の時点」である。
すなわち、機械が「過去の時点」を覚えていることになる。
そんな馬鹿なことはない!  時間が分かるのは人間側です。

>ここも、相対的な話です。ある時点の絶対時刻を知ることは
>われわれには不可能です。というかそういうものが
>あるかどうかさえわかりません。

いきなり定義なしの「絶対時刻」とは何事ですか。
「そういうものがあるかどうかさえわかりません」
と言って自身さえ分からないものを我々の
反論根拠にするなどもっての外。

>ただ、時計の針が12:00から13:00に変わっていたのであれば、
>その時刻から現在までの時間が1時間であったという事実を
>示しているに過ぎません。

「変わっていたのであれば」と言う仮定自体が「時間」概念です。
時計は時間を示すものではなく、現時点の時刻だけを示すもの。
【時間は二つの時刻の間を一度に考えること】です。
時間を説明するために時間を使うと循環論。

>まあ、一般には三体問題というはずですが、
>三体関係でもかまいません。
>私の、反論をちゃんと理解していないからです。っていうか、
>たぶんみんな「あんまりまじめに応対していない」のか、
>「あまりの傲慢ぶりに放置している」のかどっちかだと思いますが。

君のように、「三体問題」の言葉を使ってご意見欄に投稿してきた者が、
「とある人」が【2004年5月23日、件名「アホか…、こいつは」】
と言われる一幕があります。三体関係と三体問題を同一視するような
君の反論に対しても、我々は何とか解析しながら返事を書いているのです。

>の図1,2ですが、図1ではBはVb,CはVcの速度でAを基準として動いてる
>としましょう。ところが、図2になった瞬間にB,C間の相対速度が
>なぜか0になっています。ここで「速度基準が必ず速度0」という誤った
>仮定が出てきます。Bの速度を基準にしたらCの速度はVc-Vbになります。
>(ここではニュートン力学で扱います、光速に近ければ
>またそこの議論はかわりますが本質的にはかわりません。)
>では、Aの速度はどう記述できるでしょうか。Bを速度基準に考えれば
>-Vbになります。これは自明です。
>Cを速度基準に考えたときですが、柳氏はCの速度を0とカン違いして、
>-Vcという速度になると考えています。
>これが「一つの物体が二つの速度で運動してしまう現象」です。
>ところが、実際にはCの速度は、Vc-Vbであるので、それを基準にすれば、
>(Vc-Vb)+(-Vc)となり、これはすなわち-Vbとなるわけです。
>ここから考えればわかるとおり、どちらを基準にしても矛盾無く
>Aの速度を記述することができます。BとCの相対速度が0でないのに、
>それを勝手に0にしてしまったところが誤りの発生原因です。
>これに対する反論を期待しています。

「相対静止」と「絶対静止」は定義しているので「速度0」は
どちらかを明記せよ。君が期待している反論に必要だから、
説明は定義に則って行なうこと。
「三体関係」とは全ての物体を同時に扱うことである。議論過程で
「二体関係」を考えてもよいが、結論を述べるときは三物体の関係を
同時に記述することが「三体関係(相対関係)」です。
なお、「『どちらを基準に(〜から見たとき)』という前提は間違い」
だということを我々は論文(問題)にしているのです。

◆今の運動学は「〜から見たとき」という前提条件から理論を
展開するが、ここに根元的な問題が潜んでいることを説明しておこう。
◆先ず「相対運動している系のどちらが動いているかは分からない」
という主張についての解析である。この主張は、観測者が目を
明けていようが目を閉じていようが、また系に観測者が乗っていようが
乗っていまいが、そのような条件には全く関係しない。
そもそも「系のどちらが」として片方(一個の)の系に限定したこと
事態が「絶対」概念だからである。
つまり、観測者は何処に位置して眺めていようとも、
どちらの系が運動しているかは全く分からないのである。
◆次に「運動や静止は観測者に対して決定される」という主張であるが、
この主張が「〜から見たとき」に相当する。
そして、物体の鉛直落下実験を行なっている一方の系の観測者が見た
主張と、他方の系に乗っている観測者が放物落下現象を見た主張である。
すなわち、「慣性配分の原理」の下に成り立つ「現象制御系」と
「傍観系」の区別があって始めて「〜から見たとき」の主張が
意味を持つのである。
◆以上の考察により、慣性配分の原理、及び現象制御系と傍観系に
関する理論が飛躍している今の運動学の「〜から見たとき」という
主張は無意味であることが判明する。
それより、運動学は「速度基準」の言葉を使わなければ間違いが
生じてくるうという教訓である。さらに、何の断わりもなく、
座標系(数学)に速度基準の性質を担わせること事態、
大変な間違いであることを示唆している。

>物理の問題としては、初期状態ってのは任意でいいんですよ。
>そういう意味で考えなくていいと語っているわけ。
>これは、どういうことかって言うと実験を始める
>最初の点(初期状態1)が実は、その前の実験の結果であっても
>問題ないわけです。だから、「永続的に続くなんらかの物理運動」
>の中で物理法則が成立しているとすれば、そのうちある部分を
>切り出しても、やっぱりその中で物理法則はやっぱり
>成立しているというはなし。
>だから、別に初期状態が何であるかを考える必要はありません。
>だから、「わざわざ主張する意味がない」と語っています。

我々が提唱した「慣性配分の原理」については、今の運動学は
気づいていなかったのです。その気づかなかった事に対し、如何なる
理由を付けようとも、気づかなかった事実の否定にはなりません。
すなわち、先ず「慣性配分の原理」を認めるか、あるいは否定かを
明確にしなさい。その上で「慣性配分の原理」が必要か、あるいは
必要でないかを述べなさい。
もし、「慣性配分の原理」を認めた上で、それが必要でないと言う
ならば【一般に物体は鉛直落下しない】という自明事項を否定する
ことになります。

■上記の件は是非、内井惣七教授達に意見を聞いて下さい。
何故なら、「慣性配分の原理」の説明責任は我々にありますが、
それが必要か、あるいは必要でないかの説明責任は大学側に
あります。このことを怠ると【無知の転嫁】になります。
そして、その結果を必ず報告して下さい。我々は、責任外の
ことにまで対応しているのですから・・・。

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真理学会
事務局長 柳 健宏
『世界規模の間違い』 http://ggm.to/

E-mail     info2004@ggm.to
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