皆さんは国会議員を選挙でお選びになるとき、当の候補者が、教育的にも倫理的にも
御自分よりは数段上の善行を為す能力があり、しかも、それが議員になった暁には
「保証」が期待される、だからこの候補者に入れよう、などと考えて一票を投じたの
でしょうか?

つまり、一般国民はサルやゴリラに近く、当選した候補者こそが正真正銘の神によっ
て造られた理想的人間として、あるいは、そこまでではないにせよ、聖人君子の類で
あるから一段高い「良心」をもつものとして一票を投じたのか、また、そのような理
想違反が、政治的責任を発生させる程のものへと何時のまにか変質してしまった、と
か言うことなのでありましょうか。

これは大きな大きな幻想でございます。実際、彼らの成長過程や生活過程を覗いて見
ても、それらしきことがいえる材料など何も無い。にも拘らず、国民側には、「そう
あって欲しい」という願望が常にあり、他方、候補者も国民の気持ちを捉えるため
に、不可能なことと知りつつ期待に応えるべく、そのような素振りを見せる。これが
固定観念化し、事実化する。結果、国民は、架空の前提から国会議員を評価し、批判
し始める。

日本国にはこのような思考訓練の素地が既にあった。”天皇は神である”は、当時
少々の教養ある者ならば誰もが嘘であるとは知っていた。「思わせたい側」も「思わ
せられる側」もいつのまにか、結果として、天皇が神であるという「架空の前提」だ
けで命を平気で落とし血のにじむ実際行動をとった。これは例えであって、日本国民
の気質は、「架空のこと」ではあってもどうにかして自己の中にでっち上げることに
成功しそれを実際行動に結びつけるだけの強靭な精神力と、時にはよろしくはない優
れた「律儀さ」を秘めている。

以上の癖は未だに払拭はされてはいない。特に、ニュースグループでは至る所で、そ
の傾向が強い。ニュースグループにあっては、わたくし達は、今後少しずつ、物事を
「リアル」に捉えて意見を述べる癖を身につけていくのはどうか、こう思うわけでご
ざいます。