MAC屋けんちゃん wrote:
> 各自治体の自主性を持った教育が絶対だ。
> そうすればファシズムは防げる。それがどうだ、いつのまにか国家統制の教育
> 委員会に成り下がっている。
> 誰も騒がない。これほどまでに、ファシズム化がすすんでいるのに。
> kazことpapaなど、画一化はいかんなどとわかったようなことを言いながら、
> 教育行政も、公務員の政策への口出しも、ストップをうったえられない似非自
> 由主義だな。こんなのがうようよいるわけだ。


国民の教育は国民でない者の教育とは多かれ少なかれ違うのが当たり前。もちろ
ん自分側が自らを教育することを否定するものではない。

この点に関して国民の教育権は誰に有るかというような議論があるが、この点に
関しても二つのルートがあると考えるべきものである。

国家は一方のルートで国民を教育することを控えたり、ましてや逃げたりするこ
とを断じてしてはならない。国家主義的だとか言う抽象的戯言を恐れてはならな
い。国民はそれに文句があるならば国民をやめれば済むことである。自由だ。
(笑い)他方のルートで自らを教育する段に矛盾が生じ国家の教育を受け入れら
れない事態に立ち至ったときも日本国民をやめれば済む事だ。自由だ。(笑い)
こういうと国家が国民に義務を課すだけのように受け取けとられがちだが、それ
は大間違いだ。

このとき、日本国では三流知識人のまことしやかな等茶々が入るのが常である。
教育の「内容」を取り上げるのがそれである。やるべき事もやっていないくせに
一足飛びに永遠の課題である教育というものの「内容」を何かと問題にし、神様
のような面をして、これだ!と決める事ができないから国家が「内容」には介入
すべきではない、とかいって誤摩化すのがお決まりのパターン。

国際的を飛び越えて宇宙的に、あるいは神様的にその「内容」を考えるからいけ
ないのだ。簡単な事だ。地球上の人間は皆そうだが、せいぜい地球上の「虫」に
すぎない。そうであるならば、国際的によしとされている基準と項目、それがま
ず教育「内容」だと考えればよい。民主主義はこれらの項目において自国の水準
を測り、国家の義務が履行されていると言えるか否かを評価・判断すべきもので
ある。民主主義は国家が教育にかける予算と成果を比較し、国家の従って政府の
責任を追及するとするのが日本国憲法の姿勢である。

この点に関し、できるだけ民間に任せるとか毎回のようにさえずる論者がいるが
浅はかである。もっとお墓は深く掘らないとささやかな頭蓋骨が露呈し、脳味噌
が少なかった事がばれちゃうんじゃないか?


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みんなのケンちゃん