青龍です。

"NAKAMOTO Tetsuya" <tetsuzou@pop02.odn.ne.jp> wrote in message news:br9bet$kgj$1@nwjp2.odn.ne.jp...
> >  もし米英軍の攻撃は正規の軍事行動だが、残党勢力の攻撃はテ
> > ロだと言うことになると、正規の軍事行動とテロを分けるのはなんな
> > のでしょうか?
> 
> 国際法(戦争法・武力紛争法)ではないでしょうか。

 いや、ここで問題にしているのは、どのような基準で
分けているのかであって、その基準がどこに記されて
いるかではないのですが。
 
> >  これもどこまでをテロ活動と評価するのかに関係していると思います。
> 
> 私はそれらの区別は全く関係ないと思います。
> イラク前政権残党勢力の立場に立てばテロもゲリラ戦も全て正当化された上での
> レジスタンスです。一方、第三者の立場から見ればあくまでもテロはテロであり
> ゲリラ戦はゲリラ戦でしかあり得ません。

 ここで問題にしているのは、まさに第三者の立場から見て
どこまでがテロ活動といえるかです。
 
> もっと突っ込んで言えば「レジスタンス(=抵抗勢力)がレジスタンス(=抵抗)の
> 手段としてテロやゲリラ戦を行っている」というならそれは正しい。しかしなが
> ら「これはテロではなくレジスタンスである」というのならそれは大間違いです。
> 少なくとも私は賛同できません。

 テロとレジスタンスという本来次元の異なるものを同一次元で
語ろうとすると、議論がおかしくなるのではないでしょうか?
 私は、たとえレジスタンスであっても、民間人を犠牲にするテロ
活動は非難されるべきだと思っていますが、逆にその活動の中
にテロと評価されるものがあったとしても、それだけでレジスタン
スという性格が失われるわけではないと思います。
 これは、この戦争の初期に米軍が民間人が犠牲になることを
承知でバグダッドにミサイルを撃ち込んだからといって、米軍の
軍事行動全体が正規の軍事行動ではないということにはならな
いのと同じです。
 むしろ、問題なのは彼らをテロリストと切り捨てることによって、
米英軍の占領に対する抵抗という側面が見落とされることです。
 アメリカは911以来「テロとの戦い」というレトリックを多用する
ことで、テロリスト=悪、それと戦うアメリカ=善というイメージを
繰り返し強調しています。しかし、このレトリックに乗っかってし
まうと、なぜテロが起きたのか?、アメリカのやり方に問題はな
いのか、という視点がアメリカのいうテロリストへの対応の際に
失われてしまいかねないのです。
 今回のイラクの問題についても同じことがいえます。彼らをテ
ロリストと切り捨てることで、占領に先立つ米英のイラク攻撃の
正当性、米英の占領政策の是非、国連や独仏露の暫定統治
への参加、といった問題が議論の対象からはずれてしまうの
です。
 イラクを占領する米英とそれに対抗する勢力という意味での
レジスタンスという視点はこのような問題を忘れないためにも
重要だと思います。 

> 仮にイラク国民の大半が残党勢力による抵抗活動を支持しているのならまだしも、
> 多数の報道や情報を見る限り、現時点でイラク国民の大多数が望んでいるのは新
> 政権の樹立と生活の安定であって、前政権の復活では決してない。そういう現状
> において残党勢力のテロ活動をレジスタンスと表現するのは美化するのも甚だし
> く、私はとうてい賛同できません。

 この主張は、レジスタンス=正義というイメージに引きずられす
ぎているのではないでしょうか?
 また、米英の占領下、旧フセイン政権の復活かという二者択一は、
多分意識的にアメリカが否定し続けてきた国連主導の統治という
第三の選択肢を無視するのものです。このようなアメリカに都合の
いい視点に乗りかかって、旧フセイン政権の復活を望まない=アメ
リカの占領体制に反対しないとすることは、イラク人の多くが持って
いる反米感情を無視した片手落ちな主張のように思います。
 
> そうではなくて、民間人や文民が犠牲になっている現状にはあえて触れずに、イ
> ラク前政権残党勢力による武力行使や威嚇行為を全てひっくるめて――すなわち
> テロかゲリラ戦しかあり得ないのですが――レジスタンスと表現している人は少
> なからずいます。たとえば最近の国会では下記の人々がそう発言しています。

 それぞれの発言を呼んでみましたが、どの発言についてもレジス
タンスという呼び方は、だからテロも正当だなんて文脈では使われ
ていません。
 中本さんがレジスタンスという言葉に正義のイメージを持つことは
中本さんの自由です。しかし、そのイメージを前提に中本さんとは異
なった文脈でレジスタンスという言葉を使う人たちを「とち狂った」等
と表現するのは冷静な主張とはいえず、残念に思います。