《国の哲学変更なくして年金改革など成功不可能。》

近代国家は老後が保障されて当たり前だ。
老後が保障されずして近代国家などとはいえない。

『問題は誰が老後を保障するのか。』だ。

共産党の主張する最低保証年金が実施不可能な以上、国が老後を保障する事はできな
い。
民主党の案も中途半端ということだ。
中途半端な国の保障を維持するために、負担だけ上げて活力を奪うやり方は賢いやり
方とはいえない。
中途半端の保障なら民間と同じことだ。

民間でできると言うことだ。
民間でできるなら民間でやり活力をつけたほうが利口だ。

ただしこれは福祉大国路線を進んできた国の方針の変更を伴う。

ここではっきりと『保障の主体は家族にあり』と宣言すべきだ。
『老親の保障は家族に責任があり、家族助け合って暮らすことが基本です。』
と当たり前のことを当たり前に語ればよい。
この当たり前のことができていないところに根本的な原因がある。

国の哲学変更なくして年金改革など成功不可能だ。




《『国の保障があれば天国のようになって幸せになる』というのは幻想だ。》

老親の保障は家族に責任があり、家族助け合って暮らすことが基本だ。
当たり前のことだ。
家族があるのに国がしゃしゃり出て家族の代わりを完璧にやろうとするからおかしく
なっているのだ。

『国の保障があれば天国のようになって幸せになる』というのは幻想だ。
ばらばらに暮らせば20万だって苦しい。
その上これを実現するには負担を上げ活気を奪う。
活気がなきゃ支える肝心の若者は仕事に就けない。

老人も苦しい支える若者はまともな仕事がなく、仕事にありついている中年は重税が
降りかかり途端の苦しみだ。
みんな苦しくなっては企業も国も苦しい。

その上、国の保障があれば後継者育成にも必死で取りくまない。

これではお先真っ暗闇だ。
将来展望など開けない。

ここではっきりと『保障の主体は家族にあり』と宣言すべきだ。
『老親の保障は家族に責任があり、家族助け合って暮らすことが基本です。』
と当たり前のことを当たり前に語ればよい。
この当たり前のことができていないところに根本的な原因がある。
『国の保障があれば天国のようになって幸せになる』というのは幻想だ。
この幻想を追いかけているところに問題があるのだ。

国の哲学変更なくして年金改革など成功不可能だ。




《家族助け合って暮らすことが基本です。》

家族が助け合って暮らすなら国は老人に小遣いを毎月7万程度支給すれば家族全体の
生活は楽になるのだ。
国民が楽になれば活気付き企業も国も楽になる。
負担は軽く民間活力が湧き上がる。
公的市場は開放され175兆円にも上る新規福祉市場も出現する。
若者は仕事に就き、老人にもおこぼれが回ってくる。
国民は後継者も必死で育て国は持続可能だ。

国民にボランティア活動を奨励しても金回りがよければ活動も可能だ。
家族を支える豊富なボランティアも用意できる。

将来展望は良くなり投資も活発になる。

どっちが国家として選択すべき正しい国家哲学かは一目瞭然だ。

ここではっきりと『保障の主体は家族にあり』と宣言すべきだ。
『老親の保障は家族に責任があり、家族助け合って暮らすことが基本です。』
と当たり前のことを当たり前に語ればよい。
『国の保障があれば天国のようになって幸せになる』というのは幻想だ。
この幻想を追いかけているところに問題があるのだ。

国の哲学変更なくして年金改革など成功不可能だ。




《真の年金問題》

ですからここで問題はハッキリしてきた。

老親に7万?

これなら今でも可能なのだ。
老親に国が毎月7万円の養老手当てを支給する事はできる。
老親の部屋の確保の補助や家族を助けるヘルパーや豊富で熱心なボランティアを用意
することも可能だ。

これにどう移行するかが問題だ。

年金問題とはこれにどう移行するか?

これが年金問題だ。

これこそが真の年金問題だ。