Path: ccsf.homeunix.org!ccsf.homeunix.org!news1.wakwak.com!nf1.xephion.ne.jp!onion.ish.org!onodera-news!newsfeed.media.kyoto-u.ac.jp!np0.iij.ad.jp!giga-nspixp2!nntp-gw2.ocn.ad.jp!nn1.news.ocn.ad.jp!not-for-mail From: "crx" Newsgroups: fj.life.religion Subject: Re: 一神教を確信するということ Date: Fri, 18 Jul 2003 00:00:42 +0900 Organization: NTT Communications Co.(OCN) Lines: 82 Message-ID: References: <3f1186ca_2@news.premium-news.net> <140720030423026005%ayasamado@mac.com> <3f12c879_5@news.premium-news.net> NNTP-Posting-Host: p6093-dnb06kiuraw.saitama.ocn.ne.jp X-Trace: nn-tk104.ocn.ad.jp 1058452500 9632 219.161.102.221 (17 Jul 2003 14:35:01 GMT) X-Complaints-To: usenet@ocn.ad.jp NNTP-Posting-Date: 17 Jul 2003 14:35:01 GMT X-Newsreader: Microsoft Outlook Express 4.72.3110.5 X-MimeOLE: Produced By Microsoft MimeOLE V4.72.3110.3 Xref: ccsf.homeunix.org fj.life.religion:157 Taro Yoshida wrote in message ... >In article , kimicrux@crux.ocn.ne.jp says... In article , kimicrux@crux.ocn.ne.jp says... >>イエスが「闘争しろ」と言いましたか? >日本聖書協会にある聖書検索ページ >http://www.bible.or.jp/vers_search/vers_search.cgi >でヨハネの黙示録を読み直してみたのですが >他宗教?の預言者に対して悔い改めないとの理由で >当人にひどい苦しみを与えるだけでなく >子供を殺害する可能性にも言及しています(2章 20節-23節)。 確かにこの言葉どおりですと、なんと恐ろしき事であるかということが出来ますが、 キリスト教を信じ、神を信じることが出来る人は、この世の死よりも、神の子として の貞節のほうを選ぶものです。私自身に付いて言えば、この世で堕落して、前後見境 なくなってしまうより前に、神に命を奪ってほしいと思うことに賛成です。命よりも 大切なことがあるのです。神を信じるものにとっては・・・ >また、信者以外に対して殺さない範囲で害を加えること(9章 3節-5節)や >人に悔い改めさせるために天使が人間の三分の一を >殺す事を許容すること(9章 15節-20節)も書かれています。 神の摂理は、人間とって理解極まりないこともあります。ジャンヌダルクの行いにつ いては如何思われますか? 神は、人間の命を生かそう、深化させようとするものですが、肉体的に存続は難しい と思われるとき、最終的には人間の肉体より、魂を守り生かすことを選びます。ま た、ここでは、この人の肉体を脱することのほうが、魂の進歩になるという状況に達 したとき、神は、その人の肉の命を奪うことになるのでしょう。それは、神にとって も、その個人にとっても最善の道であるということなのでしょう。 聖書の言葉は「聖書研究会」などの会がうまれるほど、その真実を解明することは、 難しくなっているのではないでしょうか? >実際にイエスが他宗教への闘争を肯定したか否かはさておき >(イエスの言動を記した福音書をざっと読みした範囲では > 伝道する以外の闘争には否定的に見えます)、 >新約聖書にヨハネの黙示録(神→キリスト→天使→ヨハネへの伝聞) >が含まれる以上、 >キリスト教は他宗教への闘争を排除できないのではないでしょうか。 キリストの神が絶対的な神であるとの決定はされていませんね? 何度も言っているように、人間の認識する神の姿は、(それは、神事態が)深化、進 化しているのです。聖書の神が「神の結論」ではないのです。 キリストは、「私はまた来る」と言っていますし、お釈迦様も2600年前のインド の地において、「私はまた、ジャブドーバー(日いづる国)のケントマテイー(大都 市)において、正法を説く。と言っているのです。そのときは、道路も足がぬかるむ ことなく、ルビーやサファイアで建物が出来、夜でも町は明るく輝いている。いなが らにして、遠い人とも話が出来る。そんな時代だ。現代の、そんな世界を、お釈迦様 は2600年前に見ることが出来たのです。 イエスも、お釈迦様も私達もみんな発展途上です。私達の内側で神が進歩しているの です。我々は、神の一部なのです。私達の進歩は神の進歩であり、神の進歩は、私達 の進歩になっているのです。 例えば2600年前にお釈迦様は、比丘、比丘尼達にこういう質問をしたそうです。 「比丘、比丘尼達、サロモン、サマナー達よ、お前達の中で、煩悩が燃えている。お まえたちの目は燃えている。耳が燃えている。手が、足が燃えている。体が燃えてい る。さて、ではお前達に尋ねるが、燃えているものは何か?」と尋ねたところ、みん な首を傾げてしまった。というのです。 2600年前には、こんな易しいことが分からなかったとのことです。現代の人に は、とっても易しいことが・・・ しかし、当時の人々は、理解したと思ったらすぐに行動できたとのことです。現代の 人間は、頭で分かっていても、それを実際に行動できる人間はそうやたらといないで すね。「愛」が大切!と分かったら、すぐ愛せたのが2600年前。今は「愛」が大 切、と分かっても、愛せないのが現実。 ところで、仏陀の質問ですが、おわかりになりましたか? 「さて、では、燃えていたものは、何ですか?」 そうですね。燃えているものは「煩悩」ですね。 crx