《朝日はベトナム戦争で反省したのじゃなかったのか》



戦争が悲惨なのはあたりまえだ。

朝日はベトナム戦争では戦争の悲惨さばかりクローズアップし、反戦平和運動を盛り上げた。
『アメリカや南ベトナムが共産主義と戦う』という国家の大儀を完全に忘れた記事を書いた。

その結果、共産主義に勝利を与え、その後のベトナム国民は多くの国民が国を捨て亡命せざるを得なくなっている。
『戦争の悲惨さを前面に押し出してはいけない。』

『戦争の大義を忘れてはいけない』
と言うのがベトナム戦争の『報道における教訓』だったはずだ。

 

アフガンや、イラクでも当初その様な『戦争の悲惨さを大きく取り上げる傾向』が見られたが、やがて修正された。

アフガンやイラクにおける戦争の犠牲については抑制の効いた理性のある記事になっている。
ベトナム戦争の教訓は生かされていると言える。

 

しかし、日本の戦争ではそうではない。
いまだに戦争の悲劇悲惨さばかり取り上げ、国家の大儀は全く語らず無視している。



靖国神社という国の英雄会館が国の大儀を語り、国民を勇気付け、誇りを持たせようとするのは当たり前だ。
世界の常識だ。

その国の大儀を犠牲の悲惨さでかき消してしまうのは間違いだ。

 

現在歴史は進行中であり、世界の繁栄競争は続いている。

 

一敗地にまみれたといえども、その後隆盛を極めた例はいくらでもある。

日本の大儀がどう評価されるのかは長い歴史の中で結論付けられるべきものだ。



社会主義思想全盛期での評価と、社会主義というハヤリ病(やまい)が完全に払拭された後の評価とはおのずと違ったものになる。

現在はその過渡期だ。
少なくとも、もう少し歴史が推移した後、見る必要がある。
また、この戦争が長い歴史の一こまとなったとき、ようやく全体評価が可能だ。
歴史の評価は後世にゆだねるべきだ。



日本が戦争したことにより、東南アジア各国を欧米の植民地支配から独立させるきっかけになったのは事実なのだ。

また日本が戦争したことにより、理不尽な保護貿易体制が理想的な自由貿易体制になったのも事実なのだ。



これらの事実が正当に評価される日はいずれ来るはずだ。

もちろん、朝日のような『隣国の歴史観を強制する非常識』など後世の国民が糾弾せずにおかないことは間違いのないことだ。