敗戦は、百姓を農地解放で土地は開放したが、町人も百姓も「エエジャナイ
カ、エエジャナイカ」しか頭をよぎらない。
モヤシみたいなものだね。あるいは、食い物なくなって人里に出てきて、柿の
実見つけてたらふく食ってる熊みたいだね。その柿も底をついてきた。住民
は、景気と言う木の実で食いつないできたが、餌もなくなり、帰るべき山
も、もう見当たらない。

明治維新で取り残された、百姓、町民は、100年以上を経て江戸時代へ逆行
か。五公五民と言う重税へ。失業という飢饉への恐怖へ。

もし、明治維新で町人、百姓が、政治的な市民権を得ていれば。
あるいは、もし、敗戦で得た政治的な市民権に、人間の内側からハスの花が開
くように開眼していれば。
そうすれば、日本の政治は高度に成長していただろうに。

日本人民は、明治維新での市民への成長もなく、農奴のまま封印され、敗戦で
も絵に描いた市民権を憲法から切り出す能力も持たず、ついに、五公五民の江
戸時代の農奴に農地も持たずに帰っていくのか。
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日本人民が、なぜ、政治的暗黒、人権的暗黒に引き戻って行かねばならないの
か。
それは、猿のように自然なままの、思考なき存在であるからだ。

顔黒の女子高生、ベルト、ズボンをズリ下げてはく高校生、詰め込まれて、記
憶はできるが、反比例して思考のできない大学生、成れの果ての親たち。自由
な思考なき教師。思想のリーダーのない言論界、政治。

明治維新の中途半端さ、敗戦の憲法は猫に小判、だが、もう一度日本人は、再
生のチャンスを得るだろう。それは国家破産か、あるいは、イラク、イラン、
・・・泥沼戦争での疲弊か。
ビジョンなき対米追随で疲弊し尽す、倫理と政治を混同した近代政治学以前の
の矛盾か。

これだけははっきりしている。自治体主権以外に救済の道はない。人間が、自
然のもやしから、思考する葦に変化できるのは、自治体主権の池のほとりの
み。そこには、自由が最高の義務であり、自由が最高の規律であり、自由が最
高の道徳であると言う原理原則がある。それが、歴史的真理である。

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ファシズムは政治に倫理を持ち込む。これは政治的堕落である。政治は倫理で
はない。倫理道徳をとくなら牧師になれ。政治は住民の生活を守ること、これ
が近代政治。アメリカは堕落した。カルトの倫理・道徳が、選挙を支配した。
もはやアメリカの民主主義は、消えた。ファシズムである。政治的に堕落し
た。