Ⅰ類集合を「自分自身を要素として含む集合」とし、Ⅱ類集合を「自分自身を要素として含まない集合」とします。ここに任意のⅡ類集合Aについて集合{A}を与えたとするならばA={A}を仮定して次を論じることが許されます。

① Aは任意のⅡ類集合だからⅡ類集合であり、
② {A}はA={A}より{A}=Aとするならば自分自身を要素として含むからⅡ類集合である。

両者は矛盾しており、原因は仮定として採用した条件A={A}だと考えられるから、結論としてA≠{A}を得る!

 {A}は「任意のⅡ類集合を要素として含んだ集合」ですから、意訳したら「あらゆるⅡ類集合の集合」と同義であるとも考えられます。前者の要素の数は一つで後者は無数であるように思われましても両者は対等です。なんとならば正に【ラッセルの逆理】そのものの原因がそのような“過剰な弁別”に起因していると考えられるからです。パラドクスの生じない体系が正しい、と考えたら「任意」と「すべて」とは同じ意味です。あるいはむしろ「任意の」という条件付けは正当であるが「すべての」という表現は意訳であり通俗だと断じても宜しいかと思われてなりません・・。

例えば、

「任意の自然数よりも大きな自然数」は正当ですが、
「すべての自然数よりも大きな自然数」は正統的ではありません!

「すべての」という表現は最終結論以外には慎むべきものであることを提案いたします。 

(ま、このことはアメリカでかなり言っているのかも知れませんが・・)

 私は小学校五年のころ、NHKみんなの科学で「宇宙の外には何があるのか?」を視聴した際に、「宇宙の果てを越えて外に出ても宇宙だからうんぬんかんぬん〜」という論理のとりこ?にされたことがありまして、しばらくして健忘症が目立つようにされました。思えば、ラッセルの逆理にはやくも引っかかってZF集合論の管理にかかったようでしたが、ここに解決したもようです。このように個人的にはめでたい話なんですが、いかんせん問題が問題なだけに、大袈裟なことを言ったら人類にとってドウなんでしょう?私を祝ってくれる別人なんか想定し難いです・・。

ラッセルの逆理を生じさせない工夫として、「任意の集合の任意の要素もまた集合である」を付け加えたら「最小要素だけがⅠ類集合」ということになって、あるいは自然数でしたら、「最大数ωだけが最小要素でないⅠ類集合」であって、しかも「ωは自分自身よりも大きな自然数の集合」として別扱いにしたら【新しい超準解析学】が構成できるのではないかと存じました・・、では!

他に、もちろん、0=|φ>−|φ> かつ 1=|φ>+|φ> とする工夫だってアリですよ。     
(ユニバーサルフロンティア!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!)