現代先進国はマルチナショナル、トランスナショナル、ナショナルの三つの同
時進行というのが一般的見解である。
エスニシティが国家に複数存在することによる諸問題の意味を、人権の視点か
ら見るか、送り出す諸国の経済危機の視点で見るか、その他視点の違いと、認
識しようとする目的の違いはいろいろあるだろうが、日本におけるマルチカル
チュラルは、日本の統合政策としてはいまだ市民権を得てはいない。

グローバリゼーションのなかで失われる国民性、それへの回帰欲求、わが国は
明治以来、U.ベックのコンテナ社会という枠組みを維持してきたが、いまやエ
スニシティの問題に直面している。だが、ここでU.ベックのマルチ・ロケー
ションがわが国においてはたして可能であろうか。国土の狭さ、人口密度、海
による隔絶、これらの物理的側面からしてすでにマルチ・ロケーション否定的
ではないだろうか。

ナショナルの問題として捉えたとき、私はマルチナショナルや、トランスナ
ショナルの立場ではない。ナショナルの立場である。
日本のニューカマーは主として出稼ぎ目的であり、在日コリアンは定住性を
持っている点で明らかに一線が引かれている。経済的な埋め込みで日本に来て
いる者たちによるマルチナショナル化は、国境を越えたトランスナショナル的
認識と同様に、ナショナルの立場から、安易に国策として許容すべきではな
い。

本来、エスニシティは、民族固有のものであった。
グローバリゼーションは、スペインの哲学者オルテガ・イ・ガセットのいうデ
モクラシーを崩した群集という大衆の到来に加え、世界的にはあらたにエスニ
シティによる、経済格差や、レジスタンスと名乗るテロや、エスニシティ以上
にグローバリゼーション化した富裕階級エスニシティという見えないトランス
ナショナル化により、二重、三重のエスニシティが立体的に相克を呈してい
る。

これらの相克に欠落しているのはナショナルという視点である。
イスラムの国々は、そのエスニシティにおいて経済的に自立し、日系人は移民
先で自立し、中国は中国で自立し、ナショナルへの回帰が網の目のようになっ
た国家のエスニシティを解きほぐす方向に向わなければ、エスニシティの相克
は複雑化するばかりである。

安易に人権に名を借りたグローバリゼーションの視点は、混乱と貧困を経済的
にも解決せず、文化的退廃にまで至ることをナショナルの立場から主張せざる
を得ない。