1.本人は、信用ならないとしている日常会話言語を使用している。

2.記号論理学は功績は大きいのは当たり前。しかし、河野情報工学は記号論
理学の限界を認識せず、あらゆる事柄を記号論理学で演繹できるとする。論理
的に価値の前提なしで価値を演繹することさえ否定しない。河野情報工学は
恐るべき反近代学問であり、古典である。

3.日常会話言語の限界など、すでに、【学問的に歴史的に証明されている】
にもかかわらず、知らないらしい。その限界を示せといつも繰り返している。
河野情報工学の認識に関する守備範囲の狭さ、浅薄さは、驚くばかりである。
また、【自分で直観しているらしい日常会話言語の限界】を理由に、日常会話
言語による思考を否定しながら日常会話言語で思考しているが、その自己矛盾
を河野情報工学は説明責任を果たせないでいる。

4.社会科学は、記号論理学の貢献分野もあるが、記号論理学にも日常会話言
語と同様の限界もある。
前提に価値という前提を持たせなければ結論に価値を演繹できない。これは部
分と全体の問題ではないのに認識してない。社会科学は、記号論理学による研
究もあるが、それのみではなく、日常会話言語に、学術的用語を作り、それに
一意性を約束定義でもたせて体系化する努力をしている。このような社会科学
を否定しては人類社会は一日も成り立たない。

5.憲法は根底に哲学的根拠を前提としており、人工言語による演繹以外認め
ないのでは、憲法そのものが成り立たない。学問的事実である。その憲法下で
暮らしながら、人工言語以外はあいまいで信用ならないとして見向きもしない
河野情報工学はきわめて視野狭窄の見識である。

6.現代の人類の最大の障害が、認識の違いによる衝突である。大衆が価値認
識の論理的混乱により操られている現状認識も大切である。わが国民の政治認
識、制度への認識、道徳への認識、社会統制への認識、その他社会の種々の問
題が価値認識の無自覚さに起因している。
事実から価値が演繹できるとする過ちや、中には価値から事実が演繹できると
する過ちが、原理主義には存在している。
このような過ちは、原理主義ばかりか個人個人のなかで、価値と事実の思考の
混乱という形でも行っている。

このような世界や日本の現状認識のない河野情報工学の古典ぶりには、あいた
口がふさがらない。お笑いである。