14年間日本に住んでました。子供のころに7年間、1998年から7年間。個人的には嫌でも宗教に相当影響されて育った。両親が宣教師だったからだ。25年掛けて宗教を抜け出せたが心の傷は今も癒えない。過去を振り返りながら当時の気持ちや問題点などを延々と書きながら本でも出版しようと思ってます。仕事柄日本人と良く話すがどうも宗教の本質は日本人には理解しづらいようだ。デンマークで起きた風刺画もなぜ単なる新聞に公開された絵画が世界を巻き込む事件にまでなったのか。この実話を読めば少しは宗教の恐ろしさが分かるだろう。分かって欲しい。そう思って書いています。一部を下記に公開します。良かったら読んでみてください。さらに一部を下記のホームページで公開していますのでよろしければ読んでみてください。

www.mx2denmark.dk

1.   教会のボランティア
JackとIngeを見て彼らが立ち直ればなと心から願った。しかし自分の人生はというとこれも滅茶苦茶のように思えてきた。24にもなってまともな資格も無ければまともな仕事にも就いていない。将来は何も期待出来るものは無い。結婚できそうな相手もいなければそういう人が現れそうにも無い。キリスト教を今後信じ続けるのか、それとも自分の道を歩むのかも決めていない。そういう意味でも教会の女性と結婚するのも難しくなる。教会の女性と結婚して後からキリスト教を辞めると彼女に迷惑が掛かる。かといって信仰が全く無い人と結婚してしまって、やっぱりキリスト教を信じると決めたら僕の人生が地獄になってしまう。この決断は自分にとってはあまりにも複雑で決断が出来なかった。同時に日本とデンマークの中間にぶら下がっている人間でもあった。デンマーク人でもなければ日本人でもない。デンマーク人と結婚したら日本に引っ越して生活できる可能性はうんと減る。日本人と結婚したらデンマークで暮らせる可能性がうんと減る。しかしどっちが良いのか。両方は無理だろう。日本とデンマークを跨った生活が出来ればどれほど幸せかと思った。



当時人生はどの方向に動くのか全く分からなくなっていた。スウェーデンに行って失敗し、今までのドラマーになる夢と希望が完全に壊れてしまった。ドラマー以外に特になりたいと思う事は無かったし神様に対する信仰も少しずつ疑問を持ち始めていた。子供の頃は宣教師になりたかったけど、今はその夢も消えつつあった。しかし本当にそれで良いのかが良く分からなかった。今まですべてをキリスト教にかけてきた。それを捨ててしまうという事は人生でもあまりにも大きすぎる決断でなかなか踏み切る事が出来なかった。特に今までキリスト教の教えに従って女性とは関係を持たなかった訳で、キリスト教を辞めてしまえば今までの我慢が馬鹿馬鹿しくなってくる。聖書のどこかに書いてある言葉を思い出すがキリスト教を捨てた人間に取ってキリスト教であった時の苦労ほど愚かに思えるものは無いと。まさしくそうだ。一番性欲のあった若い頃に神様に対する忠実を考えて我慢した人間ほど馬鹿な人はいないと思い始めた。しかしまだ確実にキリスト教を捨てた訳でも無かった。迷っていた。ここでキリスト教を捨ててしまい後から一緒になるべきだった女性が現れたらそれこそ後悔する事になる。頭が痛かった。泣きたかった。何故こんなに悩まされなければいけないのか分らなかった。神様は本当にいるのか?それともいないのか?



音楽家の夢が潰れまたもや新たに今後何をして生活するかを決めなければならなかった。店長は給料が低く、労働時間が長く、出世出来ないために辞めた。その後スウェーデンに行き姉と姉のご主人に仕事を探してもらったが上手く行かなかった。姉と姉のご主人は聖書学校のボランティアを1年ほど行った後辞めていた。そしてElectroluxの工場で働いていた。両親はデンマークで失業や短期的な仕事に就いたりの連続で疲れていた。姉と姉のご主人が働いていたElectroluxの工場で二人とも同時に就職できると聞いてすぐに決断してスウェーデンに引っ越していた。僕だけがデンマークに残っていた。そういう意味でもスウェーデンで就職してみるのも良いかと思ったがやはり駄目だった。スウェーデン語はデンマーク語と違う。食べ物も違う。スウェーデンでは外国人扱いをされるなどいろいろと問題点があり、1ヶ月半程度でデンマークに帰国した。移動費、就職活動やその他スウェーデンでは結構お金が掛かってしまってデンマークに帰国した時は一円も残っていなかった。スーツケース1つで住む所も無ければ収入も無かった。今後どうするべきか全く分らなかった。とりあえずは教会の知り合いのフレミングさんのところに泊めて貰おうと思って教会の集会に出向いた。フレミングさんは泊めてあげる分には問題ないが彼もお金は全く無く食べ物が今月はもう無いと言ってきた。まぁ同じだからお互いに何とか考えて乗り越えようという事になった。バスに乗るお金も無くオーフスの町を二人で徒歩で知り合い巡りを始めた。知り合いを訪問すると必ずコーヒーや菓子パンなどを出してくれるからそれを期待してどんどんオーフスの町を歩き回った。



とりあえずは生活出来ないといけないので福祉関連事務所に出向かい失業者として登録した。そして失業手当を貰う手続きを行った。たまたま教会ではフルタイムで働いてくれるボランティアを数人集めようかと話があった。知り合いのフレミングさんが既にチームに入る予定だった。僕も良い機会かも知れないと思い神様に最後のチャンスを与える意味も含めてボランティアに参加したいと申請した。教会では元宣教師の息子で或る事や信頼されていた事などからもボランティアとして働く事が決まった。たまたま新しく建てられていた教会に部屋が二つあり、フレミングと僕はそれぞれ一部屋借りる事になった。



一部省略



1.1.  キリスト教の恐ろしさ
そんなある日ペンテコステル教会を確実にやめるべきだと思うようになった出来事があった。教会のラジオを担当していたLarsという人が居た。教会ではルーマニアかどこかにキリスト教の布教活動を行えるラジオ局を作る事が決まった。必要なお金が集まりオーフスの教会から大工さんやラジオに関する専門家がルーマニアにラジオ局を作りに行った。Larsも行った。一週間ほどいたのだろうか。翌週の月曜日の朝にはデンマークに帰国しなければいけないという厳しいスケジュールを決めていた。車で行っていたので交代で運転したらしい。運転をお願いされた一人が眠いから運転を断った。しかしどうしても月曜日までには帰国したい人がいて無理矢理運転をさせた。やってはいけない事だ。結局居眠り運転で事故が起きた。確か4人乗っていた車の2人が死亡し一人は大怪我しLarsは意識不明の状態で病院に運ばれた。Larsは結婚していて若い奥さんと3-4歳ぐらいの子供が二人いた。教会では事故の情報がいっきに広まりショックを隠せなかった。自分の耳を疑う人も多かった。キリスト教の布教のためにルーマニアに行った人が何故事故に合わなければいけないのか。神様は何故彼らを守らなかったのか。



キリスト教の考え方は常識的では無い。この事故の噂が広がり数時間以内に教会の会員が集まり病院に運ばれたLarsさんや大怪我した人のためにお祈りを始めた。何とか神様が彼らの命だけは助けて下さいと。そこまでは怪我した人や家族のことを思う心が伝わってきてキリスト教の心の温かさが伝わってくる。しかしお祈り会が始まると皆興奮し出して物事が一瞬にしてエスカレートしていった。最初のお祈りの内容は「Larsをお守り下さい」程度だった。教会の会員は皆それに賛成して口々に神様にお祈りをした。一言言わせてくださいと誰かがマイクを取った。神様はLarsを見守ってくれていると私は信じていると彼は言った。皆それに賛成しお祈りを続けた。次の人がマイクを取った。「神様の為に仕事をしたLarsを神様が死なせるはずがない。Larsは治るという感じがしてならない」と彼は言った。皆それにも賛成してお祈りを続けた。次にマイクを取った人は「神様からLarsが治るという確信を私は頂いた」といい始めた。次々と感情的な発言、神様に言われた発言、予言などが続いた。いつの間にか皆間違いなくLarsが治るという事を神様から告げられているという雰囲気になっていた。しかも神様が我々に約束してくれた事だから間違いないという風になっていた。



僕はというと、この雰囲気を遠くから見守っていた。Larsが治るという事は一度も神様から告げられてはいなかったし、逆に医者は治らないと言っている。間違いなく死ぬだろうと何故か逆の確信を持った。振り返って考えてみるとこの「確信」とは常識や筋の通ったその場の判断に過ぎなかった。しかし無理矢理筋の通らないことや常識に反する事を信じる事は出来なかった。子供の頃からの影響なのか、周りがどんなに反対意見を言っても自分と意見が異なる人が何人居ても僕は自分の常識、自分の筋が通った話からそれる事を恐れていた。治って欲しいのは僕だって山ほどだった。教会の多くの人達と比較して僕の方が毎日Larsとの接点があったため親しかったはずだ。



医者の話ではLarsが生き残っても頭に障害があり彼とまともな話をする事は出来なくなるという。彼は寝たきりの意識の無い人生を送る事になる。これはあまりにも可愛そうで残酷だと思った。Lars自信は意識が無いからまだ良いとしてもその世話をしなければいけない彼の奥さんが非常に可愛そうだった。僕は心の中では本当はLarsは死んだ方が幸せなのでは無いだろうかと思っていた。神様からは一言も無かった。僕は教会のボランティアであった事からも教会のリーダーが集まったところのお祈りに参加しなければいけなかった。一人ひとり声を出してお祈りをした。僕の番になった。皆Larsが治りますようにとか神様が既にLarsを治してくれて有難うと言ったように有りもしないような希望だけのお祈りをしていた。気持は分かるが皆頭が可笑しいと思った。こういう場所で僕だけが同じような内容のお祈りをしない訳にはいかず相当迷った。僕だけがやはり神様の声が聞こえないのか。皆聞こえているのに。それとも僕が正しいのか。だとするとLarsは亡くなる。迷った挙句その場では他の人達の気持ちを尊敬し適当に皆と似たようなお祈りをした。自分に暴力をするかのような気持ちだった。他人からのプレッシャーを感じて本当はしたくない行動に出てはいけないと思った。しかしこの場だけは無理だった。そしてその場を出て友人のフレミングには自分の正直な考え方を話した。



結局Larsは数日後亡くなった。亡くなったから教会の人は自分が間違っていた事を認めるだろうと思ったら大間違いだった。間違っている訳が無いと思ったのか、何と今度は神様はLarsを治すような小さな奇跡より、はるかに大きな奇跡を見せてくれると言い始めた。神様はLarsを死者から甦らせるのだと言い出した。だからLarsは一時的に死んだ。この時点で僕は教会に対する信用をすべて無くした。自分が間違っている事がどんなに明らかであってもそれを認める事は出来ない教会にはもう通えない。こういう人達の団体に所属し、こういう人達に人生のルールを指示されるのは怖くなってきた。自分の本当の気持ち、本当の考え方を言ってしまうと信仰が浅いだの本当にキリスト教徒なのかだのと問われるのは全く御免だ。次はどんな事をし出すのか。怖くてたまらなかった。大体Larsが治るというような如何にも神様からの予言でもあるかのように発言した人間のそれ以外の発言は信用度を完全に無くしている。この後いくら神様からのお言葉だと言われても疑われても不思議では無いはずだ。



これをきっかけに僕は教会から離れる事にしたのだが、何故かボランティアだったはずの教会の仕事を首になった。その時の経緯は忘れてしまったが、牧師さんといろいろと相談をしたところ、ボランティアは辞めた方が良いというような事を言われた。おまけに当時住んでいたアパートは教会のボランティアが住むために有りすぐに引っ越してもらいますと、アパートを追い出された。馬鹿馬鹿しいと思った。大体法律違反だ。デンマークでは家賃を払っていないという理由以外の理由で人をアパートから追い出す事は不可能に近い。しかしもう教会の牧師さんからこのような態度を受け僕は一刻でも早く教会を離れたいと思いすぐに引っ越した。とりあえずは知り合いの別の牧師さんの家の一部屋を借りた。



1.2.  新しい常識と価値観
キリスト教とはここで縁が切れた。教会にはその後退会届けを出した。25年信じ続けて来た考え方とのお別れだった。日本からの帰国時のカルチャーショックを思い出す。今回、25年間僕の価値観を決めてきたキリスト教とお別れになると自分の価値観を一から作り直さなければいけなくなる。2度目のカルチャーショックだ。



何を原点に価値観を作り上げて良いのか分らなかった。今までは聖書に何々が書いてあるからあれこれが正しいだの間違っているだのに分けていた。すべての原点が聖書だった。白黒がはっきりしていた。例えば盗んではいけないと十戒に書いてあるから盗まなかった。確かに他人から盗むという事は悪い事であるという事は聖書に書かれていなくても思う。しかし聖書が僕のすべての価値観の原点だった。不倫をしてはいけないと聖書に書いてあるから不倫は間違っていると思っていた。聖書に神様が存在すると書いてあるからそう信じていた。いきなり聖書が自分の人生から消えて無くなると、すべての原点がなくなってしまう。盗んではいけない理由を考えなければいけない。人殺しが間違っている理由、不倫が間違っている理由、それとも不倫はやっても良いのか。盗んで良いのか。人殺しも考え方によっては良いかもしれない。