余計なエサやるとバカがつけあがるだけなんだけどね。
もっともつけあがったはつけあがったで、
バカの拡大再生産を続けてるだけなんだけど。これまでも散々見られたパターン。

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閑話休題。

コーシーの記述はそれ自身が気になったのでちょっと調べてみました。
ちょっと長くなりますが、その話です。

I wrote:
> ===<邦訳「微分積分学要論」第 37 講 (p.187)>===============================
>   無限にたくさんの項の列
>   (1)     u_0, u_1, u_2, ..., u_n, ...
>  において、各項が与えられた法則にしたがって、順々に導きだされるときに、
>  これを「級数」という。n を任意の正の整数としておいて、はじめの n 個の
>  項の和を
>       s_n = u_0 + u_1 + u_2 + ... + u_{n-1}
>  とする。n が増大したときに、和 s_n が限りなく1つの定まった極限値へ
>  近づくとき、この級数は「収束する」といい、この極限値 s を、記号
>       u_0 + u_1 + u_2 + u_3 + ...
>  を用いて表し、この級数の「和」という。これに反して、n が限りなく増大
>  するのに、s_n が定まった極限値に近づかないときには、この級数は「発散する」
>  という。そして、このときには、この級数は和をもたない。いずれの場合にも、
>  指数 n に対応する項、すなわち u_n を「一般項」という。さらに、収束する
>  場合には、s = s_n + r_n と置くと、r_n はこの級数の第 n 項から先の「剰余」
>  と呼ばれているものである。
> ===========================================================================

M_SHIRAISHI チャンは第2文以下を意図的に隠蔽したわけですね。
ところが驚いたことに、そう言ってるそばから今度は私のコメントを:

> 改めて説明するまでもないでしょう。
> これは現在も使われている級数の定義そのものです。

ここで切っちゃった。隠蔽もなにも、何を切ったかさえ見え見えなのにね。
もちろん重要なのはこの先:

> 第1文の意味ははっきりしないところがありますが(あるいは誤訳、原文の誤記かも
> しれない)、第2文以下を見れば、言葉遣いまで含めてこちらで言う級数の話
> そのものです。

言ってるように、第2文以下は現在の級数やその収束の概念と変わりません。
そして普通に数学のわかっている人であればそう解釈します。
それをこともあろうに M_SHIRAISHI チャンは:

>># つまり、Cauchy が上記の書で“級数”と呼んでいるのは、現代の用語で言えば、
>>「級数」ではなくて、「数列」のことだ。

「上記の書」としたのが致命的ですね。
まだしも「この文では」としておけばよかったのですが。

「上記の書」と言うからには、第2文以下の「級数」も現在の「数列」の意味に
読みかえなければならなくなります。
しかし「級数の収束」と「数列の収束」とでは全く別物です。
級数の収束は lim s_n の問題、数列の収束は lim u_n の問題で、
コーシーがしてるのはもっぱら lim s_n の話。

第2文以下どころか、本書全体、さらには本書 "Resume..." の元本である
"Cours d'Analyse ..." を見ても、級数という言葉で表される意味内容は
一貫して現在の級数と同じです。
だからこれだけで、「上記の書」云々の M_SHIRAISHI チャンの主張は
全くのナンセンスであることは明白。

中川さんが指摘しているのもそういうことでしょうが、
皮肉を皮肉と理解する能力すら全くないバカというのはおそろしいもので、
M_SHIRAISHI チャンはバカげた因縁をつけられたとでも思ったらしい。
バカ相手に皮肉は通じないわけ。

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さて、問題は第1文で、ここからが本題。

まず原文を掲げておきます(コーシー全集より:刊行はなんと 1899 年。
さすが筑波大の図書館(というか、旧東京教育大の蔵書だけど))。
 # アクサングラーヴ等がつかないのはご容赦。

 On appelle serie une suite indefinie de termes
  (1)       u_0, u_1, u_3, ..., u_n, ...,
 qui derivent les uns des autres suivant une loi connue. (p.220)

訳文:
>   無限にたくさんの項の列
>   (1)     u_0, u_1, u_2, ..., u_n, ...
>  において、各項が与えられた法則にしたがって、順々に導きだされるときに、
>  これを「級数」という。

訳として大きな誤差はないようですので、誤訳ということはないでしょう。
 # 1つ問題があるのですが:後述
つまり問題は原文にあり、ということです。

実は初便を書いたときには見てなかったのですが、訳書の解説には
M_SHIRAISHI チャンと、見かけは同じことが述べられています。
 # ご本人はこういったところだけを切り取ってのデタラメ引用で
 # またまたわめき出しそうですが。
 # (もっともこう書いたのになおかつそれをやったら笑っちゃうね。)

それを引用しておきます。(小堀憲(訳):コーシー:『微分積分学要論』 p.220)
 ... この「要論」で用いられている術語の中には、現代の日本の高等学校で
 用いられているものとは異なるものがあるので、まず第1に、それを
 はっきりさせておかねばならぬ。第 37 講で
  『無限にたくさんの項の列
    (1)     u_0, u_1, u_2, ..., u_n, ...
   において、各項が与えられた法則にしたがって、順々に導きだされるときに、
   これを「級数」という。』
 と定義しているが、この「級数」は serie の訳語である。しかし、わが国の
 高等学校の教科書では、suite の訳語を用いて、「数列」と名づけられている
 ものである。しかし、この解説では、本文と術語を一致させるために、
 コーシーの言葉を、そのまま用いることにする。

もちろんここで言っているのは、(1) のように表される列は現在の言葉では
数列と呼ばれる、ということであって、「級数」という言葉は意味内容において
すべて数列と解釈すべきである、などといったことではありません。
(M_SHIRAISHI チャンにはこの違いさえわからないでしょうが。)
言うまでもなく、小堀先生もそんなことはしてません。

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さてしかし、この小堀論は必ずしも妥当ではない、
むしろ誤解であろうというのが以下の論旨です。

最初に、問題の第1文にはいくつか奇妙な点があります。
仮に小堀論のように、これが数列について述べているとしてみましょう。

「与えられた法則(loi connue) にしたがって」とありますが、
現在の立場では数列を決める規則性は必要ではなく、単に数の並びであれば
なんでもかまいません(ランダム数列なんてものもあるわけだし)。
もっともこれは書かれた時代を反映しただけで、当時は数列と言えばある
規則にしたがって作られるもの、というイメージだったから
かもしれません(がそうでないかもしれません)。

「順々に導き出される (derivent les uns des autres)」のほうはもっと奇妙です。
確かに漸化式で表されるような数列だと、前の項から次の項が順々に決まっていく
印象がありますが、一般項が数式(例えば 1/n^2)で与えられる場合、
「順々に」などと言わず、各項はいきなり決まります。
逆に 1/n^2 と 1/(n+1)^2 との間の関係が云々されることはありません。
一方、これが級数の話だとすれば、部分和 s_n = s_{n-1} + u_{n-1} は
確かに「順々に」決まっていく、として理解できます。

2つの問題点は共通していて、「法則」が数列の各項を決めるためのものなのか、
それ以外(具体的には級数の部分和など)なのかです。
小堀論は前者ですが、それだと実は訳文は少しまずい。全体は:
 「項の列...において...各項が...導きだされるとき...」
という構造をしてますが、これだと項の列(まあ数列ですね)がすでにあって、
それがさらに「導きだされる」ことになってしまいます。
原文は関係節で、これを修飾句として:
 「与えられた規則にしたがって導きだされるような項の列」
とすればそういった問題はありません。
もっとも法則で決まるのが数列の項ではないとすれば、
訳文はむしろ適切ということにはなります。

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この第1文を理解するには、コーシーが「数列」についてどう述べているかも
見ておく必要があるのですが、ちょっと意外なことに、この "Resume..."
全体を通じて数列については事実上、触れられていません。
わずかに第1講に (1+1/m)^m の極限などに触れられていますが、これは
式 (expression)、量 (quantite) などと呼ばれ、数列=数の列としての扱い
ではありません。
 # メインの話題が微積分だからでしょう。
 # 級数にしても、テーラー展開との関係で触れられているだけ。

そこで元本である Cours d'Analyse de l'Ecole Royale Polytechnique (1821)
のほうをみると、これもちょっとだけですが、2章のはじめあたりに言及が
あります。それを見ると、数列はもっぱら suite と呼ばれており、意味において
級数 (serie) とははっきり区別できています。
 # もちろん数列を指すときに serie と言ったりはしてません。
 # その点でも「コーシーの「級数」=現代の数列」という M_SHIRAISHI 論は
 # 全くのナンセンス。

級数のほうはどうかと言えば、コーシーはもっぱら、
 「級数 u_0, u_1, u_2, ... は...」
という言い方をしています。しかしこの場合、カンマでつながれた
  u_0, u_1, u_2, ...
は数列の意味ではなく、明らかに級数の意味です。
それが一番顕著なのは次の例です(Cours, 6章 p.119):
 ... la progression
    1, x, x^2, x^3, ...
 est une serie convergente qui a pour somme 1/(1-x)...

つまり「(等比)級数 1, x, x^2, x^3, ... は和が 1/(1-x) である収束級数である」
というわけですね。

どういうことかと言うと、コーシーでは「カンマ・テンテンテン記法」:
  u_0, u_1, u_2, ...
は級数を表す場合と(Cours の例に見られる)数列を表す場合の両方があります。
小堀論はこれをもっぱら数列として解し、級数についての場合には:
 「数列 u_0, u_1, u_2, ... の各項を足し合わせた級数」
として一段挟んで解釈するわけですが、そうではなく、コーシーはもっと直接的に
  u_0, u_1, u_2, ...
を級数そのものを表す記法として用いている、現在の書き方で言えば:
  u_0 + u_1 + u_2 + ...
と全く同義に用いていると考えたほうが自然です。

同じ記法を2通りに使うと混乱するのではないか、と思われるかもしれません。
確かにそうですが、現在でもそういった多義的な記法の例はいくらでもあります。
例えば {a, b, c, ...} というのは集合を意味する場合もあるし、
数列を意味する場合もあります。
また (a, b) は座標の場合もあるし、開区間の場合もあります。
(こちらの多義性を嫌う人は、開区間を ]a,b[ と書いたりします。)
 # 補足: コーシーは a, b, c, ... という記法を、有限列の場合にも
 # 使うことがあります。(a, b, c, ..., z のように終端を明記している
 # 場合もあり、そのほうがむしろ普通ですが。)
 # これは訳書にも触れられていて、第 5 講の訳者注 (p.19):
 # 「ここにははっきりとは述べていないが、有限個の函数だけが対象と
 #  なっていることはいうまでもない」
 # などとあります。

上記の点は気づいてみれば「コロンブスの卵」ですが、我々には
「a, b, c, ... は列」という考えが染み付いてしまっているため、
なかなかそのような切替が難しいでしょう(これも時代の現われ?)。

つまり現在に合わせて改変すべきなのは、「級数」という言葉のほうではなく
(いわんやこれが「数列」の意味であるなどというバカげた話ではなく)、
それを表す記法のほうです。コーシーの「級数 u_0, u_1, u_2, ...」を
「級数 u_0 + u_1 + u_2 + ...」に置き換えればいいわけです。
こう考えれば全体としてはすっきりしますが、問題はまだ残っています。

問題の第一は、なぜコーシーがこの「和の記法」を使わなかったかです。
この点については、コーシーはむしろ厳格であるというべきでしょう。
引用した第1段落にも見られるように、「和の記法」自体はコーシーも
使っています:
>  ...この極限値 s を、記号
>       u_0 + u_1 + u_2 + u_3 + ...
>  を用いて表し、この級数の「和」という。

しかしこの定義からもわかるように、コーシーでは「和の記法」は
級数が収束する場合に(その値を表すものとして)しか使うことが許されません。

現在の流儀では、和の記法:
  Σ a_n = a_0 + a_1 + ... + a_n + ...
は「級数そのもの」を表す「形式和」として使われており、級数が収束するか
発散するかは不問ですが、コーシーにあってはそのような態度は
容認できない(もしかしたら転用を思いつかない)ものだったのでしょう。
そこで「級数そのもの」を表す別の記法が必要になるわけですが、
それに「カンマ...記法」を用いたわけです。というか、数列の記法を
そのまま流用したというべきか。

そこで第1文に戻ります。
>   無限にたくさんの項の列
>   (1)     u_0, u_1, u_2, ..., u_n, ...
>  において、各項が与えられた法則にしたがって、順々に導きだされるときに、
>  これを「級数」という。

ここ(だけ)は、「カンマ...記法」を「和の記法」に機械的に置き換えると
おかしくなります。
ここはむしろ、カンマ...記法の両義性に引っ掛けたような言い方に思えます。
つまり「級数とは数列において... であるもの」といった言い方です。
あるいは「集合 { a, b, c, ...} において、各要素が順序づけられているとき、
これを数列という」といった言い方になぞらえることができる。
 # もちろん数列の場合には同じ値を持つ項が複数あってもいいわけですが、
 # それは不問。
そうすると訳文の書き方は(前は問題視しましたが)むしろこれに適合して
いることになります。

しかし「法則」が何を「導きだす」のかはやはりよくわかりません。
少なくとも原文のほうは、「(数列の)各項が導かれる」と読むほうが素直でしょう。
ただ、この文が「カンマ...記法を級数そのものを表すのに用いる」と宣言している
という点には問題はないでしょう。

(平賀)