今年の夏中国・重慶で行われたサッカー・アジアカップ大会試合における、中国人観衆の
声援の行き過ぎをNHKニュースが伝えた際、「日本人サポーター四面楚歌」という字幕
が現われた。

この「四面楚歌」の用法、おかしいと思ったのは、私だけだろうか。楚王項羽が漢軍に包
囲された時、聞いたのは自分の故郷の詩歌である。「四面楚歌」とは近親者までが離れて
敵に回ってしまった危機的事態を言う。

「楚辞」を読んだ人はご存知だろう。「詩経」とは、語彙も音律も随分違う。他域出身兵
に楚歌を教えるというのは、簡単なことではなかったと思う。これも漢将韓信の周到な作
戦か。計略を看破できず、「何ぞ楚人の多きや」と嘆き、落胆してしまうのも項羽らし
い。

重慶は春秋戦国時代、巴国の都。その西の蜀、東の楚とともに、周室からは、習俗・言語
を異にする化外の地とみなされていた。これを言う時、「鼎の軽重を問う」という故事が
引き合いに出される。巴と楚は巫山を堺とし、長江を介し経済交流があり、王室も婚姻関
係で結ばれていたらしい。楚の都は鄙(エイ)は後に江陵。屈原の時代、縦横家張儀の活
躍で蜀は秦に併合される。秦の天下統一の少し前、巴は楚によって亡ばされたらしい。漢
代から、蜀と巴が一体の地方とされるようになる。

ずっと時代が下って日中戦争の最中、南京、さらに漢口を追われた国民党政府は、重慶を
臨時首都とした。日本軍機は巫峡を超え、これを爆撃した。先述のNHKニュースはこう
した歴史背景にはふれなかった。

垓下の戦や五丈原の戦については詳しく知っておきながら、日中戦争については無知に過
ぎる。この戦争の戦火に追われ、軍靴に踏まれた人々の詩があるはずである。これを探
し、書き下し文として紹介したい。

預言者道祖