目先の選挙しか見ない政治屋集団に、国家100年の計が立てられはしない。

曲がりなりにも明治の政治には国家100年の計があった。
幕末の志士にも、幕府の巻く引きの武士にもあった。
今の日本に国家100年の計などどこにあるだろうか。

まず、日本が存在すること。
日本人が、リード オフ マン として世界に存在すること。
科学技術においても他の分野においても秀でた業績を多々残すこと。
そして何より、倫理、精神的風土において、後世につながる精神的支柱を持った国民
であること。
経済が貧乏では、ならない。ただしい、経済学理念を国民が理化して徳の高い経済国
家を樹立すること。
戦争で国力を浪費しない主体性を持つこと。
バルカンのこの極東においては、100戦練磨の政治力学を持った政治家を持つこと。
ビスマルクのごとき。


この辺が最低限踏み外してはならない側面ではないだろうか。
金髪、刺青、覚せい剤に、援助交際、学力ていたらくに、利己的な我のみ良しならそ
れでよい
このような学生も、政治家も、教員も、会社員も、会社役員も、公務員も
亡国へのダニである。国家100年の計は、芸能人学者などではむり。
国民一人一人に考える力を広める草の根運動の真摯な活動が不可欠。

とっつあん、どうせ老い先短い人生だ。NPOでも設立し、私財を投じて日本のため
に、世界のために日本発のシンクタンクを、政治家に利用されることなく人々の視点
にたって、国家100年の計を高揚させる懐の広い塾を作ってくれないか。