In article <2s2r83F1gh99vU1@uni-berlin.de>, 
kaz hagiwara <kazhagiwara@yahoo.co.jp> wrote:

:NAKAMOTO Tetsuya wrote:
:> なんかドイツ人が過去の歴史について反省しているか否かの議論が続
:> いているようですが、それについて私の考えを述べるのは止めておき
:> ます。ただ、大不況と失業と貧困と労働運動と宗教と民族主義が最悪
:> の形で重なった結果がナチス・ドイツであり、その原因、すなわちゲ
:> ルマン人をそのように追い込んだのは当のゲルマン人だけではないと
:> いうことは思想の左右を問わず多くの人に理解して欲しいです。
:
:結局そういうことなんでしょう。つまり、ことはそう単純ではないわけですね。
:複雑な事象は、行くところまで行くと(戦争の勝ち負けという)白黒で決着がつ
:くことになるわけですが、そのときに、それまであった複雑な事情が一挙に単純
:化してしまう。そうなったときに、「いいか悪いかと問われると悪いとしか答え
:ようのないもの」に対して、それまで「複雑な事象」としてかかわってきた人間
:としては、割り切れない気分を持ちつつ、その「事象の単純化」とおりあいをつ
:けていかざるを得ないことになるわけです。

こういう『ドイツはナチスを反省した』式の言論は、政治的なもので、美学的な
ものだと思います。『歴史』ではなくて、『歴史認識』は、『ウンコの様
な現実』を強度に単純化したものです。ここに良く投稿している人でも『史実』を
強調する人がいますが、『もともと悪いのですから、なんでも反対せざるをえな
い』といった(と思う)家永三郎のように、解決のつかないものを、美学的に、
つまり『頭の中で』解決したつもりになる。それも政治の作用の一つです。そう
いう意味では、中国のいう『歴史問題』とか、朝鮮式の『歴史の清算』、『歴史
の立て直し』も同じです。シナ文化圏では『歴史』で断罪するのが当然であって
『歴史』は政治権力の正当化以外の何ものでもないわけですが、日本でそれをす
る理由はない。『歴史の清算』などフィクション以外の何ものでもありません。
神話といっても、共同幻想といっても、擬制と言ってもよい。

:そうやってせっかくおりあいをつけて心の平安を保ってきたのに、わざわざ「複
:雑な事象」を掘り起こすことは勇気がいるし、心理的にはある意味危険なことで
:す。それは、ことが複雑であればあるほど、あらたな「おりあい」を見つけるこ
:とが困難になるからです。

それをあけても大丈夫と読んだのだと思います。EUとユーロという力を背景に
して。

:日本の場合、その「パンドラの箱」はすでに開いてしまっています。それを端的
:に示すのは、優勢な「おりあい」がひとつではないという事実です。日本では
:「敗戦」を心理的に処理するための「おりあい」が、ドイツほどひとまとまりで
:はありません。

私はそれで良いと思います。日本をシナ文化から隔てているものは、そういう
『あいまいさ』であり、ある意味『自由の余地』です。もちろん、これも私なり
の神話なわけですが。

-- 
松田@NY