> しかしだ、それでいいかは別問題。特に日本の場合は最初の段階があまりにも低レベ
> ルだ。即ち国会議員を選ぶ選挙が民主性発揮の原因にはなっていないのである。もち
> ろん選挙と言う形のものは行われる以上「外形的」には民主的では有る。あなたはむ
> しろ、この「外形的民主性」で止まらざるをえない所を問題にすべきなのである。わ
> れわれはこの「外形的民主性」は本物の民主制とはいえないのではないか、という発
> 想の下「国民投票制」を絡めようと考えるわけだ。憲法学で最近唱えられているナシ
> オン主権からプープル主権へ、というのも同様の発想が基点となっている。

スイスのように議会の仕事が国民投票のみという訳ではない以上、
国会議員を選ぶ選挙が民主性発揮の原因に成らないと困るでしょう。

しかも議会と違い、国民投票は
審議期間や決を採るタイミング
(込み入った問題はこれらの操作で結果を変える事ができるでしょう)には
肝心の国民は手を出せません。
投票用紙にしても、
「スイス型
用紙1…『アメリカに戦争をふっ掛ける』か否か
用紙2…『アメリカと和平を結ぶ』か否か」
のように
矛盾した結果を覚悟してでも議会に準ずる形にするか、
「用紙1だけ…『アメリカに戦争をふっ掛ける』か『アメリカと和平を結ぶ』か」
誰かが矛盾した結果がでない様に調整するのを許すか
(誰かの調整により
用紙1…『アメリカに戦争をふっ掛ける』か否か
用紙2…『中国に戦争をふっ掛ける』か否か
が
用紙1だけ…『アメリカに戦争をふっ掛ける』か『中国に戦争をふっ掛ける』か
に成る恐れもあります。)
という類の問題もたくさんあったりします。
それにも拘らず、間接民主制でしかない議会の決定を
ひっくり返す力を持たざるを得ませんから、
慎重に扱わないと、とんでもない決定が直接国民の責任になってしまうでしょう。

だいたい、議会が無くても国民投票のある国なんて余り聞きません(スイス?)。
選挙が高レベルの状態でならともかく、
そうでないのに国民投票の話をするのは順番が違うと思います。
まあ、これ以上どうしようも無いという意味では、
日本の選挙は高レベルの状態でしょうが。